元エホバの証人一世、possibleの“独り言”的ブログ

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「罪」という言葉の意味

以前、私は、このブログにおいて、

 「悔い改め

という言葉に、どういうイメージを持っているか
と尋ねたことがあります。
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-16.html

エホバの証人の教育のみを受け入れ、
「心の法則」のことを全く知らない人にとっては、
その言葉に「積極的なイメージ」を持つことは
たぶん難しいでしょう。
それは、その言葉の「積極的な意味」を
教えてもらっていないからです。


さて、その「悔い改め」という言葉に関連して、
今日は、「」という言葉の意味について説明したいと思います。

この「」という言葉の“基本的な意味”については、
実は、エホバの証人は、よく知っています。
すなわち、「(まと)を外す」という意味です。

ここまでは正確な知識であり、まあ、いいでしょう。
問題なのは、そのあとです。
ですから、「悔い改め」という言葉と同様、
エホバの証人の教育においては
この「」という言葉を使って
人に「積極的な思い」を持たせることは難しいでしょう。

しかし、「心の法則」を知った人にとっては、
この「」という言葉を使って
人に「積極的な思い」を抱かせることが可能です。

もちろん、その基本的意味は、「的を外す」ということであり、
その「」という言葉そのものに
積極的な意味があるわけではありません

しかし、それが、どういう意味で「」なのか
ということの説明(解釈)が違うのです。
心の法則における「」の意味とは、こうです。
以下、ジョセフ・マーフィー博士の説明を引用します。

「英語の(Sin)という言葉は、
 ギリシャ語で「目標を失う」という意味
 の言葉からきています。
 昔、ギリシャ人の射手が雄牛の目を射損なうと、
 的を外した、目標を見失った、
 すなわち罪を犯したと呼んだのです。
 
 あなたのゴールや願望、目的や理想というものは、
 すなわち、あなたが目指しているもの、つまりです。
 その理屈でいうと、ゴールに到達できないこと、
 目的にかなわないことが罪
ということになります。
 
 したがって、健康を損なったり、
 富や心の平安を失ったり、
 本当の自分を表現できなかったとき
 あなたはを犯しているのです
。」

 (ジョセフ・マーフィー著、田中孝顕訳
  ジョセフ・マーフィー・ゴールデンプログラム「アンリミテッド・ハピネス」 SESSION14より。
  ジョセフ・マーフィー・インスティテュート、2004年改訂新版。)




いかがでしょうか。

本当の自分を表現できなかったとき」を、と呼ぶ
とマーフィー博士は述べています。

これは、おそらく、エホバの証人にとっては新しい概念です。
もしかしたら、あなたは、ものみの塔という組織の中にいた時、
毎日「罪を犯し続け」ていたのではありませんか?

すなわち、「自分のやりたいこと」もできず、
自分の「本当の気持ち」もおさえ、
ずっと「自分の感情」を押し殺し、
ずっと、がまんして、がまんして。。。

こうして、ある人たちは、「うつ病」や「抑うつ神経症」や
「心の病」を患ってしまったのではありませんか?
そういう状態を、心の法則では「」と呼ぶのです。

内なる神が、「あなたを通して」ご自身を表現したい
と思っているのに、それを押さえつけ、
自分の本当の気持ちや感情を無視して
自分に対して罪を犯しているからです。

あなたが鏡を見る時に、
そこに映る表面上のあなたではなく
あなたの目の奥にいる
あなたの内面の深いところにいる

 「本当の自分

に対して、です。

ヨハネ 5:14(新世界訳)
「こうした事の後,イエスは彼を神殿で見つけ,
 こう言われた。
 「見なさい,あなたは健康になりました。
 もう罪をおかしてはなりません
 さらにひどい事があなたに起きないためです」。」



私たちが、身体的にも精神的にも、
本当の意味での「健康」を取り戻すためには、
イエスのこの教えに従う必要があるのです。

もう、いいかげん、罪を犯し続けるのは、やめませんか?
聖書は、実際には、そこからの解放を教えているのです。


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「直感」を信じる

直感」とは何だろう?

分かっているようでいて,
でも,それを人に「分かりやすく」説明しよう
と思うと,案外,難しいものである。

私なりに説明しようとすれば,それは,
自分の「内なる神」あるいは「潜在意識
からのメッセージである。

それは,「明確な声」というよりも,
感覚」であったり,「なんとなく
であったりする。


私たちは,日々,この「直感」を使っている。

たとえば,この道を右に行こうか左に行こうか
今日は,なんとなく,こっちの道を通っていきたい
なんとなく,今日は,この道を行くのはやめよう

そんなふうに感じたり,思ったことはないだろうか。
それが「直感」である。

その「直感」を信じて,そのとおりに従うかどうかは,
あなた次第である。


ある人は,この直感を「無視」する。

なんとなく「いやな予感」がするのに,それを無視する。

自分では,「こちらがいいと思う」のに,
「他人の意見」や「世間の目」を気にして無視する。

そのようにしてると,自分の直感は,だんだんと消え去る
あるいは,直感は,ちゃんとメッセージを送ってるのに,
「いつもそれを無視」してるものだから,それに気づかない。


聖書には,こんな不思議な記述がある。

イザヤ 30:21。新世界訳)

「あなた方が右に行くにしても左に行くにしても,
 あなたの耳はあなたの後ろで
 「これが道である。あなた方はこれを歩め」
 と言う言葉を聞くであろう。」




聖書は,この種のメッセージに満ちていると私は思う。
私は,これが「直感」だと思う。

たとえば,こんな聖句もある。

サムエル第二 2:1。新世界訳)

「そして,その後,
 ダビデはエホバに伺って,こう言ったのである。
 「わたしはユダの都市の一つへ上って行きましょうか」。
 するとエホバは彼に言われた,「上って行け」。
 そしてダビデはさらに言った,
 「どこへ上って行きましょうか」。
 すると,言われた,「ヘブロンへ」。」



実に不思議な聖句である。
そう思わないだろうか。

ダビデは,どうやって「神に伺った」のだろうか。
そして,どういうふうに答えを得たのだろうか。


ダビデは,明らかに,「統治体に伺ったので・は・な・い

私は,こう思う。
ダビデは,「自分の心に訊いた」のだと。
(もう少し詩的に表現すれば,「自分の胸に手を当てて訊いた」のである。)
すると,自分の心が答えを出したのだ,と。

いわば,彼は,自分の「内なる神に」訊いたのである。


一方,聖書には,こんな記述もある。

サムエル第一 28:5, 6。新世界訳)

「サウルはフィリスティア人の陣営を見ると,
 恐れ,その心はひどくおののきはじめた
 サウルはエホバに伺うのであったが
 エホバは夢によっても,ウリムによっても,
 預言者によっても決して答えられなかった。」



この場合,彼の内なる神は,何も答えてくれなかった。
理由は単純である。
彼が「恐れ,その心はひどくおののきはじめ」ていたからである。

簡単に言えば,彼の心が「ネガティブ思考」でいっぱいであり,
そのため,潜在意識からのメッセージも,
直感も働かなかったのである。

このような「マイナスの心の状態の時に」問い訊ねても,
たぶん,潜在意識は,「ネガティブなメッセージ」しか返してこない。


私は,聖書は,ポジティブ思考により,

 自分の「直感を信じろ!

と教えてるのだと思う。


その行為が常に「良い結果」を生むとは限らないとしても,
しかし,何の導きもないように見える人生の中で,
明日はどうなるのかさえ分からない私たちの人生において,
頼れるのは,自分しかいない」のである。

だったら,自分の心が訴えかけてくるメッセージを
ちゃんと聞こうではないか。

例えば,こんなふうに。

「ここに,黄色と青の服がある。
 どちらの服が良いだろうか。
 黄色か。
 青か。
 それとも両方か。
 あるいは,今は買わないほうが良いか。」

あなたの心は,たぶん,答えを知っている。


聖書の「真実を語りなさい」の意味(エフェソス4:15)

まだこのブログを見てくれる人がいるかもしれないので,
久しぶりに「更新」してみる。


さて,実は,私は時々,「Possible訳」に挑む。
「Possible訳」とは,私が独自に,聖書の原語から
聖書の翻訳を試みてるもののことだ。

うちのサイトには,少しだけ公開してあるんだけど,
「新約聖書」だけでも仕上げたくて,翻訳に取り組むんだけど,
正直,一日,「一節の翻訳」が,やっとなくらいなのである。
はっきり言って,私には翻訳という作業は難しい。
(こんなの,いつ仕上がるんだろって感じ。)

今日は,「エフェソス4:15」の翻訳に取り組んだので,
その試訳を公開し,「心の法則の観点からの解説をしてみたい。


------------------------------------------------------

「むしろ,私たちは,[常に]真実を語り,
 愛の中で,成長しようではありませんか。
 「彼」の《その》すべてを目ざして,
 すなわち,頭であるキリスト(メシア)
 [の持つあらゆる点に到達できるまで]。」

 -エフェソス4:15。[possible訳聖書]



----------------------------------------------


私たちは,常に「真実を語りましょう」と勧められている。

ものみの塔のようなファンダメンタリストなら,
たぶん,こういう部分は,「他人にウソはつくな」と教えるだろう。
それ自体は,有益な助言だと思うし,
もちろん,他人にウソはつかないほうがいいに決まってる。

だが,「心の法則」では少し違う。

心の法則では,聖書は,私たちの「内面」について,
つまり,私たちの心の働き」について教えてると教える。

とすれば,ここで,「だれに対して」真実を語るのか
ということが問題になる。
聖句自体をよく見てもらえれば,
「他人に」などとは,どこにも書いてないことにも気づく。

聖書は,実際には,私たちの「内面」について象徴的に述べている
という点に注目すれば,ここで「真実を語る」とは,
まず「自分に対して」ということになる。
つまり,聖書は,「自分の心にウソはつくな」と教えてるのだ。

自分が本当は「やりたいこと」,「したいこと」があるのに,
それを,あたかも,やりたいとは思ってないと自分に言い聞かせたり,
自分の「本当の気持ちや感情」を押し殺したり,
そんなことばっかり,いつも,してないだろうか?

その「自分の心に」,ウソはついてはいけないよ。
そう聖書は教えてくれる。

汝自身に対して誠実であれ
 いかなるときにも誠実であれ。
 されば汝は,すべての人々に対して誠実とならん。」

 by ナポレオン・ヒル




そういうことは,ものみの塔では教えてくれない。


----------------------------------------------


また,聖書は,「愛の中で,成長しようではありませんか」と教える。

もちろん,ファンダメンタリストたちは,
「アガペー愛」の大切さを力説するだろう。
「他の人たちを」,“自己犠牲的な愛で”愛することが必要であると。
自分よりも,まず他人を」優先させよ,と。
(そんなことばかり,私は,ものみの塔で教わった。)


しかし,「心の法則」の観点からすれば,
その愛は,まず「自分に」向けられる必要があることが分かるであろう。

あなたは,誰よりも「まず自分を愛して」いるだろうか。


------------------------------------------


なお,「心の法則」,あるいは,ニューソート系の教えでは,
「愛」とは,単に,それだけの意味ではない。
心の法則では,

 「」とは,「引き寄せの法則の別名

だと教わる。
(マーフィー博士の本では,「牽引の法則」として知られる。)

「引き寄せの法則」とは,簡単に言えば,
何かを心の中で思うと,それを「引き寄せてしまう」という
ある意味,恐ろしい法則のことである。

だから,「良いこと」を思えば,「良いこと」を引き寄せるし,
反対に,「不安」や「心配」があれば,それを引き寄せることになる。

それゆえ,「常にポジティブ思考を心がけなさい」という
ニューソートの教えは,実は,ここに「理由」があるのである。

「他人に対して悪い感情を持ったままでいてはいけない」
と教わる理由も,実は,ここにある。
なぜなら,その他人に対して抱いた悪感情は,
「自分の中の心の働き」であり,
引き寄せの法則によって,すべて「自分に返ってくる」からだ。


聖書は,その「愛の中で」,
言い換えれば,「引き寄せの法則の中で」成長しましょう
とも教えてくれてることになる。

私たちの夢の実現は,その法則にかかっているということを認め,
それゆえ,「常にポジティブでいなければならないと」いう結論に,
何度も何度も「試行」と「経験」を重ねつつ,自ら至らねばならない。


----------------------------------------


さて,こうして,「自分の心にウソはつかず」,
自分を愛する」人となるならば,
そして,常に「ポジティブ思考」を心がけるなら,
やがて,その人は,「他人」に対しても
常に誠実で,愛のある人間になることだろう。

それこそが,クリスチャンにとっての理想の人間,
すなわち,「イエス・キリストの人格」に近づく道でもあるのだ。


「ソーハム瞑想法」と,「I AM」

今日は,ヨガとか,ヒーリングで用いられている

 「ソーハム瞑想(呼吸法)」

というものについて,お話ししてみたいと思う。

そして,そこから,「聖書との意外な共通点
についても考えてみたいと思う。


さて,「ソーハム瞑想法」とは,もちろん,
元々は,「ヒンズー教」から来てる「瞑想法」,あるいは「呼吸法」であるが,
呼吸の(無音声の)マントラ」とも言われている。
http://www.yoga-gene.com/contents/ws_and_etc/eventboard/914.html

なぜ,「呼吸の(無音声の)マントラ」と呼ばれているのかと言えば,
それは,この「ソーハム」という言葉を,口に出しては唱えないからである。
つまり,「心の中で」唱えるのである。


そのやり方についてであるが,
ゆっくり息を吸いながら,「ソー」と(心の中で)言い,
そして,ゆっくり吐きながら,「ハム」(ハムー)と(心の中で)言うのである。

ゆっくり吸って吐くので,当然,それは「腹式呼吸」(深呼吸)となる。
そして,それが,私たちの精神を落ち着かせるのである。




さて,「ソー」という言葉が,日本語の「吸う(すう)」に,
「ハム」(ハムー)が,日本語の「吐く(はく)」という言葉に
なんとなく「対応」しているように思えるのが個人的には面白いと思うが,
その言葉は,もちろん,「サンスクリット語」(梵語)である。

ソー」というのは,本来は,「sah」(サハ)という言葉で,
その三人称・単数・主格の代名詞が「ソー」である。
「ソー」とは,「」「それ」という意味である。

次に,「ハム」という言葉であるが,
元々は「aham」(アハム)という言葉で,
その一人称・単数・主格の代名詞が「ハム」である。
「ハム」とは,「わたし」という意味である。


この二つの言葉(「sah(サハ。彼)」+「aham(アハム。わたし)」)を合わせ,
連音で「Soham」(ソーハム)と発音する。

したがって,直訳は,

 「(それ)は,わたし[である]」


という意味である。
http://sitarama.jp/?mode=f38

 [~である(~です)]という角括弧で囲んだ「be動詞」は,
本来のその言葉にはないが,二つの単語を並べて,
「Aは,Bである」と読ませるのは,ヘブライ語と同様である。



さて,「ソー」も「ハム」も,文法は共に,
どちらも「主格」(「~は」「~が」の形)であり,
それゆえ,「ソーハム」を,「彼なのだ,私は」と訳す人もいる。
http://www.hannya.net/melmag002.htm

また,インドの有名な聖者の一人,サイババによれば,

I am He”(「私は彼(神)である」「私がその者である」)


という意味である。
http://sai.way-nifty.com/sainews/2004/05/thought_for_the_27.html


さて,サイババの述べる“I am He”という説明で
気づいた人もいるかもしれないが,
実は,これは,「聖書」の中に出てくる「非常に有名な言葉」なのである。

すなわち,イエス・キリストがギリシャ語で

エゴー・エイミ


と述べた言葉である。

ヘブライ語では,「エフエ」とか,「アニー・フー」と表現されてる言葉で,
それは,神がご自身について述べた言葉である。
英語の聖書では,“I am He”(私がその者である)とか,
I AM”(我有り)と訳されてる言葉である。


こういう,「聖書においても,とりわけ重要な言葉の部分で
ヒンズー教と似ているというのは,面白いと思う

私の独断と偏見で思うに,たぶん,
どちらかがどちらかに「影響」を及ぼしたか,
あるいは,「共通の源」があったように思える。

ファンダメンタルのキリスト教徒にとっては,「I AM」と「ソーハム」は
違う意味かもしれないが,「心の法則」(聖書の象徴的解釈)
の観点からすれば,「ほぼ,同じ意味」の言葉である。


聖書は,イエス・キリストの思春期と青年時代,つまり,
12歳から30歳になるまでの,およそ17年間の暮らしについては,
一切言及していない


そのため,ある人たちは,イエスはその間,
インドに行っていたのだ」と“推察”するが,
すでに述べたとおり,「ソーハム瞑想法」と,
イエスの述べた「エゴー・エイミ」には,
多くの「共通点が存在する

案外,その“推察”は,「当たらずとも遠からず」なの か・も・しれない。


もしかしたら,イエス・キリストは,日々「ソーハム瞑想」を行なった結果,
「神との一体感」(I am He)を体得した「グル」(師)なのかもしれない。




「八万四千の法蔵は 我身一人の日記文書なり」 by 日蓮

さて,昨日書いた記事に対して,「誰の反応もない」(笑)ところで,
次の話題に行きたいと思う。

昨日は,旧約聖書の一つの聖句の「象徴的な意味」を説明するにあたって,
私は,次のように述べていた。

「マーフィー理論では,このように,聖書は象徴的に
 「心の法則を(私たちの内面」,「心の働き」について)教えている」
 と教える。」



と,このように私は,掲示板でもブログでも,何度も述べてきているのだが,
この意味が今ひとつ分からない」という人のために,
ここで,ある日本人が,今から700年以上前に述べてた,
非常に興味深い言葉を紹介してみたいと思う。

その日本人とは,あの日蓮宗を開いた「日蓮聖人」である。
(常識なので,分かってるとは思うけど,一応述べておくと,
 「聖人」は,「せいじん」ではなく,「しょうにん」と読みます。)

彼は,象徴的に「八万四千」(はちまんしせん)とも言われる
仏教の膨大な数の教典に関して,次のように述べていた。
(「ふりがな」を付けておいたので,よ~くその意味をつかみながら,読んでみていただきたい。)

「此(こ)のの一法(いっぽう)より国土世間も出来(しゅったい)する事なり,

 一代聖教(しょうきょう)とは 此(こ)の事を説きたるなり

 此(こ)れを 八万四千(はちまんしせん)の法蔵とは云うなり
 
 是(こ)れ皆 (ことごと)一人の身中(しんちゅう)の法門にて有るなり,
 
 然(しか)れば 八万四千(はちまんしせん)の法蔵は 我身(わがみ)一人の日記文書(もんじょ)なり
 
 此(こ)の八万法蔵を 我が心中に(はら)み持(たも)懐(いだ)き持(たも)ちたり
 
 我が身中(しんちゅう)の心を以(もっ)て
 と 法と 浄土とを 我が身より(ほか)に思い願い求むるを 迷いとは云うなり

(日蓮聖人著「三世諸仏総勘文教相廃立」 58歳の時の著作)



この日蓮聖人の言葉,何度も繰り返し読んで,
その意味を,おぼろげながらも つかむと,
その「重要性」が,だんだん分かってくるのではないかと私は思う。

私が,ものすごい意訳
この日蓮聖人の言葉を言い換えれば,こういうことである。

「すべてのものは,「心」から出てくる。
 仏教の経典というのは,実は,このことを教えているのである。

 釈尊の言葉(膨大な仏教の経典)も,ひとりの人の「内面」について教えている。
 だから,実際には,それらの教典は,私たちひとりひとりの「日記文書」なのだ。

 この教典の教えは,実際には,私たちの「内面」について教えているので,
 その中に出てくる「仏」とか「浄土」というものを
 どこか自分の「外」にあるものと思うことを,仏教の言葉で「迷い」と言うのである。」


ということだろうと思う。

どうだろう。
この私の「意訳」で,日蓮聖人の言葉が,「すごい」って分かるだろうか。


さて,日蓮聖人にとっては,「仏教の経典」がそうだったように,
クリスチャンにとっては,「聖書」がそうなのだ。

つまり,聖書は,実際には,私たちの「日記文書」なのである。
あなたは,ことことに,今まで気づかなかっただろうか。

簡単に言えば,そこには,象徴的に「私たちのこと」が書かれており,
私たちの内面」(心の働き)について教えてくれてるのである。


また,日蓮聖人にとって,「」とか「浄土」がそうであったように,
クリスチャンにとっては,「」とか「天国」が,そうなのだ。

つまり,私たちの「どこかにあるというものではないのだ。




「詩編37編25節」の意味

今まで,だいぶ,ブログのほうは,ほうっておいていたのだが,
なんか,私の気づかないうちに,コメントをいただけてたようで,
ちょっとまた「更新」をしたいな,と思うようになってきた。

コメントがあると,やっぱ,「やる気」が出てくるよね。(笑)
人間というのは,実に不思議なもので。


さて,今日は,「マーフィー理論」(心の法則)の観点から
旧約聖書の「詩編37編25節」の聖句の意味について,
述べてみたいと思う。

その「詩編37編25節」とは,こういう聖句である。

「わたしはかつては若者であったが,わたしもまた年老いた。
 だが,義なる者が完全に捨てられるのを見たことも,
 その子孫がパンを捜し求めるのを[見たこと]もない。」

 -詩編37:25。[新世界訳]



この聖句は,エホバの証人の間では,神の組織と共に忠実であるならば,
神が必ず顧みてくださる」ということの保証として使っている。

それは,もちろん,聖書の言葉を「文字どおりに」とらえた場合の,
それなりに納得できる「解釈」の一つであろうと思う。


しかし,今日は,その,エホバの証人の間ではよく知られている聖句に関して,
マーフィー博士が,「心の法則」の観点から,聖書の「象徴的な意味」を
説明してくれてる部分があるので,そこから引用して示してみたいと思う。

マーフィー博士は,こう述べている。

「「私は若かった」とは私は心の法則を理解しなかったということを意味し
 「今,年をとった」とは知の始まりを意味しています。
 
 あなたが精神的に賢くなり,自分の心の働きを理解すれば
 正義(生命の法則の正しい利用法)は
 決して忘れ去られることはありません。・・・

 もし,両親と先生が心の法則と永遠の真実を若者に教えるならば,
 彼らの子供は決してパンを乞わなくなるでしょう

 
 これはこれらの子供たちは決して乞食になったり,浮浪者になったり,
 泥棒になったり,世界の専制君主になったりしない
 ということを意味しています。
 
 言い換えれば,あなたの子供たちは,
 それらの信念に満たされるであろうということです。」

(ジョセフ・マーフィー著「成功とツキをもたらす黄金律」 騎虎書房,1993年。245ページ。)




この説明に納得するかどうかは,それぞれの人の判断におまかせするけれども,
マーフィー理論では,このように,聖書は象徴的に
心の法則を(私たちの「内面」,「心の働き」について)教えている」と教える。

もし,今までの「ファンダメンタル」的な,聖書を「文字どおり」に解釈することに,
何か不満や不足を感じることがあるのなら,
たまには,マーフィー博士の本を読んでみるのも,新鮮で,いいのではないだろうか。

やがて,そこに,なにか興味深いことを発見し,
今までとは違った観点で
聖書なり,また,他の聖典を見れるようになるかもしれない。


たぶん,このブログでも何度も取り上げてきたとおり,
その「心の法則」の観点から,聖典を「象徴的に」読めるようになる時,
恐らく,そこに,なにか「共通のもの」があることを発見するであろう。

もし,あなたが,その「共通のもの」を発見した時には,
どうか,あなたのその貴重な知識を分け与えていただきたい。

「ナマステ」という挨拶と,「内なる神」

インドやネパールで交わされる「挨拶の言葉」に,

 「ナマステ


という言葉がある。

これは,ヒンディー語,あるいは,ネパール語で,
こんにちは」という意味である。

しかし,これは,会った時だけでなく,
「別れ」の際にも使える言葉なので,実際には,
おはよう」「こんにちは」「こんばんは」「さようなら
という意味である。
http://www.aresclan.com/tokutei.html

だから,これは,ヘブライ語で言うと,
シャローム」(平安がありますように)と同じように,
一日中,いつでも使える「挨拶の言葉」である。

それさえ覚えておけば,きちんと「挨拶」できるので,
ある意味,「便利な」言葉である。


さて,この「ナマステ」という言葉。
この言葉を使う時の動作は,大抵,
日本で言う「合掌」(がっしょう)の形をとる。

つまり,顔や胸の前で
両方の手のひらを合わせ
拝む」(お辞儀をする)である。
http://www.shj.or.jp/seclabo/images/nep0210/np0210_18.jpg

この挨拶の仕方は,たとえ,そのインド人やネパール人が
エホバの証人であっても,同じである。


さて,この「ナマステ」。
元々は,「ナマス」と,「」という言葉の合成語である。

ナマス」とは,日本語では「南無」(なむ)という言葉で伝わっており,
~に敬礼します」「~に帰命します」「礼拝します」という意味がある。

この「ナマス」の意味については,つい先日,
オーム・ナマ・シヴァーヤ」という,
インドにおいて最もポピュラーな「マントラ」(真言)の意味を
説明した際に,言及したばかりである。
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-59.html

その「マントラ」(真言)の意味は,

 「シヴァ(内なる神に帰依します

という意味であると説明した。



では,今,「ナマステ」の意味を考えてみよう。

「ナマステ」とは,実際には「ナマス・テ」で,
ナマスする(帰依します)
と言ってるのである。

では,この「とはどういう意味か


ナマステ」という言葉は,ヒンディー語,あるいは,ネパール語であるが,
元々は,古代インドの言葉である「サンスクリット語」から来ている。

そのサンスクリット語で「」とは,

 「あなたに

という意味である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%86

つまり,「ナマステ」とは,文字どおりには

 「あなたに帰依します

と言ってるのである。


これを,もう少し,日本人にもわかりやすく言うと,

 「あなたに南無します


と言ってるのである。

日本人が,「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経
と念仏や題目を唱える感覚からすれば,
それが,どれほどすごい言葉だか,分かるであろう
つまり,

 南無あなた


と言ってるのだ。

相手が,それほどの「敬意」を払って,挨拶してくれてるのである。
しかも,相手の動作は,「合掌」である。

だから,相手が,そのように挨拶してくれたら,
あなたは,それを「嬉しく思う」のではないだろうか。
だから,こちらも,同じ動作で「ナマステ」と返す。


しかし,この「南無あなた」の「あなた」とは,
単なる外見上の,目に見える「あなた」という意味ではない。

実際には,

 「あなたの内なる神に」,ご挨拶申し上げてる

のである。


しかし,実際には,さらに,それ以上の意味である。
つまり,

 「私の内なる神(真我,仏性)
  あなたの内なる神
(真我,仏性)に,
  ご挨拶申し上げる


という意味なのだ。

だから,「合掌」してるのである。


こう考えると,「ナマステ」という挨拶,
単なる「挨拶の言葉」だと思ったら大間違いである。

あなたは,このインド流の挨拶の仕方に,
すごさ」を感じないだろうか。
そして,その「素晴らしさ」を感じないだろうか。


今度,あなたが,誰かと会う時,
その人の中の神性」に向かって,挨拶してみよう。

もちろん,相手を「神のようにあがめる」のではなく,
また,自分が「相手よりも劣ってる」と感じるのでもなく,
自分の中の神性」(内なる神)
相手の中の神性に,ご挨拶申し上げるのである。


では,この記事の最後に,
私からも,皆さんへ。

ナマステ



Namaste! (I bow to the divine in you.)





「マントラ」(真言)と「内なる神」

世界の様々な宗教,特に,東洋の宗教には,
神々や仏の名を唱える「マントラ」という行為が伝わっている。

マントラ」とは,元々は,サンスクリット語(梵語)の言葉であり,
般若宗・空王寺の碧海龍雨(あおみ りゅう)氏によれば,
「意念」を表す「マン」と,「器」を表す「トラ」の複合語で,
意念の器」という意味だそうである。
http://www.hannya.net/mantra.htm

だから,その唱える言葉(文章)は,「無意味な言葉」を並べてるのではなく,
本来,ちゃんと,「意味が込められているのである。

ウィキペディアによれば,本来的には「文字」「言葉」を意味する。

一般には,「真言」(しんごん)と訳され,
また,似たような言葉で,「陀羅尼」(だらに)と言われることもある。

一般には,一種の「呪文」みたいなものと思われていて,
その「言葉」(響き,波動)自体に,力があるとされる。


日本においては,弘法大師空海の開いた真言宗
その「マントラ」(真言)を,サンスクリット語(梵語)の音を
そのまま「音写」した漢字という形で日本に伝えた。

(真言宗が,「原語の宗教」と言われるゆえんは,ここにある。
 サンスクリット語(原語)のまま,真言を唱えるからである。
 一般の日本人には理解不能のため,「密教」とも言われる。)

そして,他宗派においては,たとえば,
親鸞の開いた浄土真宗では,「念仏」(南無阿弥陀仏)を,
日蓮聖人の開いた日蓮宗では,「題目」(南無妙法蓮華経)を唱えるが,
これらもまた,元々は,日本に伝わった大乗仏教の中の
数ある「マントラ」(真言)や「陀羅尼」の中の一つであったのであろう。


また,神道においても,「祝詞」(のりと)を唱えるし,
また,「言霊」(ことだま)と言って,
「言葉そのものに,霊的な力が宿る」と信じられている。


さて,イエス・キリストは,その「山上の垂訓」の話の中で,

 「しかし,祈る際には,諸国の人々がするように
  同じことを何度も繰り返し言ってはなりません
  彼らは言葉を多くすれば聞かれると思っているのです。」
  -マタイ6:7。[新世界訳]

と言われて,一見,この「マントラ」のようなものに言及してる
ように思えるが,具体的にそうだと述べてるわけではなく,
そこらへんは,よく分からない。

そもそも,そのように教えたあとの「主の祈り」は,
現在でも,「そっくりそのまま」祈るクリスチャンもいるし,
イエス自身,ゲッセマネの園において,何度も同じ言葉を繰り返された

そもそも,マントラとは,元々,「意味のある言葉」で,
その意味のある言葉を,「その意味も理解せず」,
「無意味に」繰り返す人たちのことを,いましめているともとれる。

聖書自体,ローマ10:13(ヨエル2:32)その他の箇所において,
主の名を唱えることを勧めている。

(そもそも,バラモン教の「称名思想」に影響を与えたのは,
 旧約聖書(ユダヤ教)であると言う人もいる。)



さて,「マントラ」自体の説明(前置き)が長くなってしまったが,
実は,私が今日,何が話したいのかと言うと,
インドにおいて,ものすごく有名で,ポピュラーな,
一つの「マントラ」を紹介したいのである。
そして,その「意味」を,少し,解説してみたい。

それは,こういう「マントラ」(サンスクリット語)である。

 「オーム・ナマ・シヴァーヤ






このサンスクリット語の意味を説明する。

オーム」・・・簡単に言えば,「ブラフマン」のことで,究極の神(根源)を表わす聖なる音。

ナマ」(あるいは,ナマハ)・・・「~に敬礼します」「~に帰命します」「礼拝します」の意。
 「ナマス」という言葉の変化形で,日本語では「南無」(なむ)という漢字で伝わっている。     

シヴァーヤ」・・・「シヴァへ」(シヴァ神へ)の意。「○○+アヤ」で「○○へ」という意味。
 「シヴァ」とは,「吉兆」「慈悲深い」「親切」「友好」「幸運」「満足」「解脱」という意味がある。

http://blog.sitarama.jp/?eid=592583
http://ameblo.jp/milione/entry-10446316811.html




ファンダメンタリスト的な思考しかできない人は,
なんだ,「シヴァ神に帰依しますという意味か
と単純に思って,何の思考もなく,反射的に退けるだけかもしれないが,
ことは,そう単純ではない。

あるサイトでは,この「シヴァ」の意味について,こう説明されている。

「これは、他のすべての存在の源と考えられ、他者と切り離された神ではなく、
 すべての人の中心に内在している神とされています。
 シヴァは、外部にあるわけでもなく、あなたと切り離されたものでもなく、
 むしろ、あなたの心の中心に存在するものです。」

http://sitarama.jp/?mode=f6


この説明は,もう完全に,「心の法則」で言うところの
内なる神」(I AM)と同じ意味である。

また,仏教で言うところの「九識心王真如の都」と同じ意味である。
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-51.html
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-38.html


また,スワミ・スブラムニヤスワミは,次のように述べている。

オーム・ナマ・シヴァーヤがこのように価値あるマントラであるのは、
 それが真我から心へと流れている音に最も近いためです。
 それは真我(つまりはシヴァあなたの内なる神ハイヤーセルフ
 へと至る確実な道であるため、オーム・ナマ・シヴァーヤを唱えることは
 意義深いことなのです。」

http://sitarama.jp/?mode=f6


この説明も,実に興味深いと思う。

要するに,簡単に言えば,「オーム・ナマ・シヴァーヤ」とは,

 私の“内なる神”を信じます

というマントラ(真言)なのだ。

その「意味を理解しながら」唱えるから,力を持つのである。


このマントラも,「心の法則が分からないと,その真意を全く理解できず,
ファンダメンタリストのように,「なんだ,シヴァ神に帰依しますという意味か
と思うだけであろう。

そして,そのような「陳腐な」,また,「皮相的な」概念で,このマントラを見る時,
そこで言うところの「シヴァ神」とは,もちろん,
自分のにいる神」であろう。
http://sebastian-company.com/india-gods/shiva.htm


しかし,それが実際に教えてるのは,

 「“真我”への帰依

なのである。
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-53.html

その真意を理解した時,この「マントラ」は,きっと力を持つだろう。

そして,それは,今から700年前の この日本において,日蓮聖人が
私たちの中に本尊がある,と教えてくれてたことと共通している。
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-23.html


もちろん,キリスト教徒であろうと,ヒンズー教徒であろうと,仏教徒であろうと,
ファンダメンタリスト」と呼ばれる人たち,
(聖典を「文字どおりに」解釈する人たち)は,存在する。

しかし,ファンダメンタリスト的な解釈では,
たぶん,どの宗教でも,どの聖典でも,
また,どんな神を選んでも有害」になりうる。


今日,ここで説明した「マントラ」でさえ,
「文字どおりに」解釈して,いったいどんな益があると言うのだろう。

単に「退ける」か,「くだらない」と言うか,
あるいは,「シヴァ神の熱心な信徒になる」以外にはないであろう。



あなたは「神の神殿」である

聖書には,次のような,とても興味深い,
そして,思考を刺激する言葉が書かれている。


 「あなた方は,自分たちが神の神殿であり
  神の霊が自分たちの中に宿っていることを知らないのですか。」
  
  - コリント第一 3:16。[新世界訳]
  http://www.watchtower.org/j/bible/1co/chapter_003.htm#bk16



さて,現役のエホバの証人のうち,いったい,どれほどの人が,

 「自分は神の神殿だ」,
 「神の霊が自分の中に宿っている

ということを“知っている”だろうか。

たぶん,聖書のこの言葉を読んでも,
その「意味」を,あまり深く考えたことがないかもしれない。


さて,使徒パウロは,同じ「コリント第一の手紙」において,
同様の,次のような言葉を残している。

 
 「あなた方の体が,あなた方の内にある聖霊の神殿である
  ことを知らないとでもいうのですか。」
  
  - コリント第一 6:19。[新世界訳]
  http://www.watchtower.org/j/bible/1co/chapter_006.htm#bk19




さらに聖書は,次のように述べる。


 「わたしたちは生ける神の神殿なのです
  神が言われたとおりです。
  「わたしは彼らの中に住み,彼らの中を歩くであろう。
   そしてわたしは彼らの神となり,彼らはわたしの民となる」。」
 
  - コリント第二 6:16。[新世界訳]
  http://www.watchtower.org/j/bible/2co/chapter_006.htm#bk16




聖書の教えは非常に明確である。

すなわち,

 わたしたちは神の神殿である

ということである。

だから,わたしたちの中に神は住む("I will dwell in them" KJV),と聖書は述べているのである。
http://bible.cc/2_corinthians/6-16.htm


これは,「内なる神」(God presence within you)を信じてる人たちにとっては
非常に分かりやすい聖書の言葉であるけれども,ある人たちにとっては,
“衝撃的な”,また,思考を刺激する言葉ではないかと私は思う。

それは,「内面」を“象徴的,比喩的に”描写した,
聖書の非常に「美しい表現」の一つである。

すべては,私たちの「心」次第

日蓮聖人は,まだ青年の若き頃(34歳の時),こう述べていた。


 「衆生(しゅじょう)の心けがるれば 土(ど)もけがれ
  心清ければ 土も清しとて
  浄土と云ひ 穢土(えど)と云うも 土に二(ふたつ)の隔(へだて)なし
  (ただ)我等が心の善悪によると見えたり

  (日蓮聖人著「一生成仏抄」 34歳の時の著述)



ここに出てくる「穢土」(えど)という言葉は,
「穢(けが)れた土」と書いて,「汚れた国土」のことを表している。
これはもちろん,仏や菩薩の住む「浄土」(じょうど)に対する言葉である。

しかし,日蓮は言う。
「浄い国土」(浄土)も「穢れた国土」(穢土)も,土に二つの隔てはない。
ただ,私たちの「」の善悪によって
そこが「浄土」にもなり,「穢土」にもなると。

これもまた,実に奥が深い,いい言葉だと私は思う。


聖書にも,似たような言葉がある。
それは,使徒パウロが述べた言葉である。


 「わたしは知り,また主イエスにあって確信しているのですが,
  それ自体で汚れている物は何もありません。
  ただ,人がある物を汚れていると考える場合にのみ
  その人にとってそれは汚れたものなのです。」
  
  -ローマ 14:14。[新世界訳]



この説明など,ほとんど日蓮聖人が言ってることと同じだと私は思う。
すべては,その人の「」が決めるのだ

だから,ある人にとっては,それは「汚れている」し,
ある人にとっては,それは「汚れていない」(清い)のである。

これは,完全に,「心の法則」を教えているのではないだろうか。


たとえ,「同じ事実」や「同じ対象」を見ても,
すべての人が,まったく同じように考えたり,感じたりするわけではない。

すべて,その人の「」がそれを見て判断するのである。

「それは良くない」とか「すばらしい」とか,
「美しい」とか,「きたない」とか,
「うれしい」だとか「うれしくない」だとか,
「しあわせ」だとか,「不幸」だとか。


今,「しあわせだ」とか「不幸だ」とかって感じるのも,
皆,私たちのがそう判断してるのである

だから,もし,その人の「心がネガティブ」なら
そのネガティブな心で世の中や周りを見ているのだから,
きっと,「すべてがネガティブに映る」ことだろう。


一方,もし,その人の「心がポジティブ」なら,
まったく「同じ事実」を見ても,「同じ苦しみや悲しみ」に出会っても,
きっと,違うふうに反応するだろう。

その悲しみや苦しみの中にも,
その人はきっと,「ポジティブな点」を探しだし,
強く立ち上がって,再び,前に進もうとするだろう。
そして,その経験をとおして,他の人を励ますのである。

私たちは,そのような人になりたい。


最後に,もう一度,日蓮聖人の言葉をここに引用して,この記事を終わりにする。


 「浄土と云ひ 穢土(えど)と云うも 土に二(ふたつ)の隔(へだて)なし
  (ただ)我等が心の善悪によると見えたり







言葉の持つ力 (私たちは自分の人生の創造者である)

今日は,私が掲示板やいろんなところで何度も紹介している
私の好きな動画を,このブログでも紹介します。
http://bb2.atbb.jp/strongwings/viewtopic.php?t=50

その音楽は,「太鼓の音」が鳴るたびに,私たちに勇気と力をくれる。

その動画に現れる「言葉」を,
今日は,文字によって,ここにはっきり示しておきます

英語だけでなく,日本語での私の訳(意訳)も試みています。
もし,英語の分かる方で,アドバイスなどもいただけたら嬉しいです。





※ 画像の文字が読みにくい場合は,
  動画の再生後右下のHQという部分をクリックするか,
  以下のアドレスを直接クリックして見てください。
  以下のように,アドレスのあとに「&fmt=18」と入れると,
  Youtubeの場合,「画像と音の質が向上」します。
  これは,誰もが知ってるわけではない「裏技」です。
http://www.youtube.com/watch?v=w3M6cboaOKk&fmt=18




Words are Powerful
言葉は,ものすごい力を持っている

Magic.
まるでマジック(魔法)のような。

With them we create whatever we choose.
それら(言葉)により,私たちが選ぶものが何であれ,私たちはそれを造り出す。

Choose Now...
だから,今,選びなさい。(あなたが用いる言葉を)


I AM Powerful
私はパワフルである。(力がある)

I AM Creative
私はクリエイティブである。(創造的である)

I AM Creator of My Destiny
私は自分の運命の創造者である。

I AM Wise
私は賢い。

I AM All Knowing
私はすべてを知っている。

I AM Universal Intelligence
私は全世界(全宇宙)の知能である。(万能の知性を持っている)

Today I Express My Genius
今日,私は,私のすばらしい才能(天才)を表現する。

I AM GRATEFUL for all the blessings I have and all that I am receiving!
私は,私が持つすべての祝福,および,私が受け取っているすべてのものに感謝する。

I AM GRATEFUL I live in a Magnificent Universe
私は,私が素晴らしい世界に住んでいることに感謝する。

I AM so very THANKFUL
私はとても感謝している。

I AM GRATEFUL
私は感謝する。(私は感謝そのものである)


Today I AM Aligned with the Perfect Vision of My Life
今日,私は,私の人生の完全なるビジョン(夢)に照準を合わせる。

Today All That is Good is Available to Me.
今日,あらゆる良いものは私にとって入手可能である。(手に入る)

Today I Take Perfect Right Action Toward My Vision
今日,私は,私のビジョン(夢)に向かって完全に正しい行動をとる。

Today All of My Needs Are Met Right Now!
今日,私の必要とするすべてのものに私は直ちに出会い満たされる。


Prosperity and Abundance are my Birthright.
繁栄と豊かさとは,私のものである。(私の生得権である)

Excellence is the Hallmark of my Life,
秀でていること(優秀であること)は私の人生の特徴である。

My Life is Fulfilling and Joyous!
私の人生は願望を実現できて,とてもうれしい。


I AM a Powerful Magnet for Light
私は,「光」を引きつける強力な磁石である。

I AM a Powerful Magnet for Love
私は,「愛」を引きつける強力な磁石である。

I AM a Powerful Magnet for Joy
私は,「喜び」を引き寄せる強力な磁石である。

I AM a Powerful Magnet for Laughter
私は,「笑い」を引き寄せる強力な磁石である。

I AM a Powerful Magnet for Peace
私は,「平和」を引き寄せる強力な磁石である。


I AM Awake
私は目覚めている。(「覚者」である。)

I AM Inspired
私はインスピレーション(霊感)を受けている。

I AM Focused
私は集中している。

I AM Pro-Active
私は率先する。(先を見越して行動する)

I AM Aware
私は知っている。(理解している)


I Expect and Receive Miracles!
私は奇跡(ミラクル)が起きることを期待し,それを受け取る。

I Fulfill My Highest Potential
私は,自分の最も高いポテンシャル(潜在能力)を発揮する。

I AM Generous and Prosperous
私は寛大であり,成功(繁栄)する。


I AM a Mighty Blessing on this Planet
私は,この惑星に住む巨大な祝福の一つである。

My Life is A Blessing
私の生命(人生)は祝福である。

My Life is A Gift
私の生命は賜物(贈り物)である。

I AM Gift
私自身が贈り物である。

I AM so very THANKSFUL
私はとても感謝している。

I AM GRATEFUL
私は感謝している。


This Day...Awesome Opportunities Await Me!
今日この日・・・素晴らしい機会が私を待っている!

I have access to Infinite POWER
私は無限の「力」に近づく。

Infinite WISDOM
無限の「知恵」に。(限りなき知恵に)

Infinite CREATIVITY
無限の「創造性」に。

Infinite ABUNDANCE
無限の「豊かさ」に。

So I AM.
そう。「I AM」に。



英文著作権:
Copyright (c) LightForm Productions, Inc
http://manifestthesecret.com/

「貧しい人たちにみな与えなさい」の意味

今日は,聖書を読んでいて,
非常に「受け入れがたい」と思う聖句について,
マーフィー理論」(心の法則)をもとに,少し考えてみたいと思う。

それは,あるお金持ちの青年に,イエス・キリストが言われた言葉である。


その青年はイエスにこう訊ねた。
「師よ,永遠の命を得るために,わたしはどんな善いことを行なわなければならないでしょうか」(マタイ19:16)
と。

それに対してイエスは,
「命に入りたいと思うならば,おきてを絶えず守り行ないなさい。」(マタイ19:17)
と言われた。

その青年が,「どのおきてですか?」と訊いてきたので,イエスは,
「隣人を自分自身のように愛さねばならない」などの
重要な「おきて」を引用して答えた。(マタイ19:18,19)

それに対して青年は,
「わたしはそれらをみな守ってきました。まだ何が足りないのですか」(マタイ19:20)
と訊いたので,イエスは,次のように答えた。
今日,問題にしたいのは,イエスが言われたこの部分である。)


 「完全でありたいと思うなら,
  行って,自分の持ち物を売り,貧しい人たちに与えなさい
  そうすれば,天に宝を持つようになるでしょう。
  それから,来て,わたしの追随者になりなさい。」
  (マタイ19:21



その言葉を聞くと,青年は「悲嘆して」去って行ったという。(マタイ19:22)

そして,イエスは,
「富んだ人が神の王国に入るよりは,らくだが針の穴を通るほうが易しい」(マタイ19:24)
という,非常に印象に残る言葉を残す。


さて,問題のマタイ19章21節の言葉であるが,
今日どれほど聖書を「文字どおりに解釈する人であっても
この青年に言われた「イエスの言葉のとおりに行動する人は少ないと思う。

マルコの聖句によれば,

 「あなたが持っている物をみな売り,貧しい人たちに与えなさい。」
 (マルコ10:21


とイエスは言われたからである。

要するに,「持ってる全財産を(ことごとく売り)」という意味である。
これを「文字どおり」行なえば,どんな金持ちであっても「一文無し」になる。

ちなみに,あの有名なアンドリュー・カーネギーという大富豪は,
この聖句をもとに,「慈善事業」を行ない,「社会に奉仕」したという。
(「ウィキペディア」参照。)

しかし,通常,普通の人には,なかなかこういうことはできない。
そもそも,人に全部(全部でなくとも,たくさん)与えるほど
金銭に「余裕」のある人など,それほどいない。

それに,そんなに与えてしまえば,自分が生活できなくなる
普通に何もしてなくても,お金はどんどん出ていくからである。
固定資産税,車の保険や税金やガソリン代やタイヤなどの維持費,
年金,健康保険,食費光熱費,家賃,家のローン,
携帯,そして,インターネットの料金(笑),etc・・・。


では,イエスは,そもそも,どういう意味で

 「行って,自分の持ち物を(みな)売り,貧しい人たちに与えなさい。」


と言われたのか。

心の法則」の観点から見ると,次のようになる。

心の法則」では,聖書はことごとく,私たちの「心の働き」(「内面」のこと)について述べている。
すると,ここに出てくる「貧しい人たち」というのは,
私たちの「心の中にある何かを指している。
(「外面」の,そして「文字どおりの」貧しい人,という意味ではない。)

たとえば,ある本の中では,マーフィー博士は,
イザヤ58章7節の「貧しい人」(新共同訳)とは,

 「いまだに実現されていない希望,理想,計画,目的を表しています

と述べている。
(ジョセフ・マーフィー著「あなたの夢はきっとかなう」 きこ書房,2005年。218,219ページ。)


ということは,である。
イエスが言われた言葉の意味は,

 「あなたが持ってる能力や才能や財産をすべて投入して
  あなたの「希望」や「目的」を成し遂げるために努力せよ。」


という意味になる。

そうすれば,「」(内なる神の住まう場所,すなわち「」,あるいは「」)
「宝」を持つようになるのである。
http://www.watchtower.org/j/bible/mt/chapter_019.htm#bk21

そして,そこ(心や脳蓄えられた「財産」,すなわち,
あなたが苦労して身につけた「知識」や「才能」や「積極的な態度」(積極的な思考習慣)は,
だれも奪うことはできない
http://www.watchtower.org/j/bible/mt/chapter_006.htm#bk20

そうすれば,やがて,その心に蓄えられた知識」や「才能を使って
お金を作り出す」(収入を得る)ことができるだろう。

昔から,(文字どおりの)「貧しい人たち」を本当の意味で助ける(救う)には,
捕った魚を毎日与えるのではなく,その人たちに

  魚の捕り方 (知恵)

を教える必要がある,と言われているのは,このことだと思う。


聖書は,「心の法則」から見ると,分かりやすい。

あなたの好きな聖句は何?

私は,現役JWだった頃,兄弟姉妹たちに

 「あなたの好きな聖句は何ですか?

と訊くのが好きだった。

そうすると皆,思い思いに,自分の「好きな聖句」を教えてくれた。

その聖句が「どうして」(なぜ)好きなのかということを訊くと,
その人のことを,もっと良く知れた。
なぜなら,その聖句が好きな「理由」が,あるからである。

そうすると,それは,その人の「境遇」(背景)なり,
辛かったこと」なり,そういうことと深い関係があったりする。
そして,その聖句は,そんなその人のことを「励まし」たり,「慰め」たりする。
その人の「心の琴線に触れるもの」が,何か,そこにあるのである。


この質問は,もちろん,元カノにもした。
彼女は,「抑うつ神経症」という心の病をかかえていた。
すなわち,気分がすぐれた時(調子がいい時)と落ち込む時(調子が悪い時)が交互に訪れる。

彼女の複雑な「家庭環境」や,様々な「辛い経験」が重なり,
彼女をそうさせてしまったのである。


彼女の好きな聖句は,「ゼパニヤ3:17」だった。
彼女は,その聖句をカードに書いて,私にプレゼントしてくれた。

その聖句とは,こんな聖句である。

「あなたの神エホバがあなたの中におられる。
 強大な方であり,救いを施してくださる。
 歓びを抱いてあなたのことを歓喜される。
 その愛のうちに沈黙される。
 幸福な叫びを上げてあなたのことを喜ばれる。」
 -ゼパニヤ 3:17。[新世界訳]
 http://www.watchtower.org/j/bible/zep/chapter_003.htm#bk17




当時は,私は現役JWであり,聖書の「文字どおりの読み方」しか知らなかったが,
この聖句は,私の心を打った。

しかし,今,「心の法則」というものを,だんだんと理解し始め,
今,この聖句を思い起こしてみると,その出だしから興味深い。

「あなたの神エホバがあなたの中におられる。」



普通に読むと,何てことはないが,これ,注意深く読むと,
神が,「あなたの中におられる」と書いてある。

中におられる」・・・
あなたの「中に」・・・

すごい。
ちゃんと,「はっきりと」書いてあるじゃないか。聖書に。


「歓びを抱いてあなたのことを歓喜される。・・・
 幸福な叫びを上げてあなたのことを喜ばれる。」



元カノが,いいと思っていたのは,もちろん,この部分である。

彼女は,様々なことで「自尊心」を失っていた。
だから,神が,そんな彼女のことを「幸福な叫び」を上げて「喜ばれる」
と言っているこの聖句が,きっと,彼女の心の琴線に触れたのであろう。

私が,いいと思うのは,「あなた」と単数形で言ってる部分である。
「あなた方」(複数形)ではない。
神は,「あなたのことを」喜ばれるのである。


ちなみに,「幸福な叫びを上げて」という部分は,
現代訳では,「主は歌を歌って」と訳されてる。
そうか,神は,それほどまでに喜んでくれるのか。

また,「喜ばれる」と訳されている部分は,
新エルサレム聖書では,“he will dance”と訳されている。
そうか,神は,「ダンス」を踊ってくれるほど,喜んでくれるのか。

歌を歌い,ダンスを踊りながら,自分のことを喜んでくれる神。
素晴らしいじゃあないですか。


「その愛のうちに沈黙される。」



この部分の解説として,ある聖書注解書は,次のように述べる。

「"叫びよりも身振りよりも,沈黙によって表される最も深い新郎の愛"
 という解釈は,この箇所に十分調和する。」

(「新聖書注解・旧約4」いのちのことば社,1974年。615ページ。)



この部分には,「ことばでは表現しきれない深い愛」とも書かれている。

ことに,「新郎の愛」というのは,興味深い解釈である。
すなわち,自分の妻(エルサレム)を愛する「夫の愛」である。
しかし,もちろん,セプトゥアギンタ訳では,この愛は,「アガペー」と表現されている。

言葉では表現しきれないほどの深い愛(アガペー)でもって,いつも見守り,
歌を歌いながら,そして,ダンスをしながら
「あなたのことを喜ばれる」神。


あなたの中にも,この「愛にあふれた神」がいる。
そして,この神は,あなたを通して,ご自身を「表現」なさるだろう。

そう。
愛にあふれた「あなた」を通して。
神の子である「あなた」を通して。



顕在意識と潜在意識の「一致」

さて,今日は,私がまだ聖書の「文字どおりの読み方」
しか知らなかった時に,マーフィー博士の本を読んでいて,

 「もしかしたら,マーフィー理論は正しいのかもしれない」

と思った聖句を紹介してみたい。

それは,こんな聖句である。

「あなた方に真実に言いますが,
 地上にいるあなた方のうちの二人が,どんなことでも
 自分たちの請い願うべき重要な事柄について同意するなら,
 天におられるわたしの父によって,それは
 その[二人]のためにそのようになるのです。」
 -マタイ 18:19。[新世界訳]
 http://www.watchtower.org/j/bible/mt/chapter_018.htm#bk19




さて,この中に出てくる「二人」とは,具体的には,「誰」のことか。

そして,なぜ「二人」が,ある事柄について「同意」すると,
それは,父(神)によって,「そのようになる」のでしょうか。

これは,いったい何を教えようとしているのだろうか。


この聖句を「ものみの塔ライブラリー」で検索してみると,

*** 塔98 3/1 14ページ 1節 クリスチャンの集まりの価値を認識する ***

「確かに,その約束をした時イエスは,会衆で指導の任に当たる人たちが正しく扱うべき審理上の問題について論じておられました。(マタイ 18:15‐19)」



という解説が出てくる。

他の解説部分も見ても,大抵は,「長老」たちが共に集まる時のことや,
審理問題」(排斥問題)を扱う時のことについて言及してる。

( ̄-  ̄ ) ンー
実に,つまらん。

イエスは,そんな「つまらないこと」を教えようとしてたのだろうか。


では,「マーフィー理論」によると,この聖句は何を教えようとしているのか。

マーフィー博士によると,この中の「二人」とは,具体的には

 「顕在意識」と「潜在意識

のことを指している。

そして,別の表現では,

 「あなた」とあなたの「願望」,
 あなたの「思想」と「感情」,
 あなたの「考え」と「情緒」,
 あなたの「願望」と「想像力

というふうにも表現されている。
(ジョセフ・マーフィー著「眠りながら成功する」第二版。
  産業能率大学出版部,平成元年。131,132ページ。)


そして,この「二人」の間に「調和ある結合や一致」があると,
あなたの祈りは「かなえられるでしょう」と書かれています。
(これは,以前に説明したとおり,「夫」を「顕在意識」,「妻」を「潜在意識」と考え,
 「調和ある結合」を「結婚」と考えれば,分かりやすい。)

私は,マーフィー博士のこの説明を初めて見た時に,
「この説明は,もしかしたら本当かもしれない」と思ったものである。


いずれにしても,この聖句を,「心の法則」の観点からだけでなく,
たとえ「文字どおり」にとらえたとしても,
「二人」(あるいは,二人以上)の人間の間に「同意」(意見の一致)があり,
その,共に同意した「共通の目標」なり考えなりに向かって,「一致協力」しあい,
「共に努力」して取り組めば
,それは,かなえらえることを教えてるのではないだろうか。

それが,二人の「夫婦」の間であれ,「友」との間であれ,
あるいは,「仕事」の関係であれ,そうだろうと思う。

一人より,「二人」が勝るのである
だから皆,「チーム」なり,「団体」なり,
組織」なり,「会社」を結成して,物事に取り組むのである。
(ナポレオン・ヒル博士は,この協力関係を「マスターマインド」と呼んだ。)


こういうふうに,聖書を読んで,誰もが適用できるように普通に考えればいいものを
どうして,統治体は,この聖句は,「長老」だとか,「審理問題」について論じていた
などと,つまらない解釈をほどこすのだろうか。
こんなものは,「組織以外の人」(エホバの証人以外の人)にとっては,何の意味もない。


ただ,もちろん,そのような解釈をするのは「自由」だと私は思う。
しかし,エホバの証人の間では,そうはいかないのである。

 「出版物にこう書いてある。だから,その解釈が絶対に正しい
  その他の解釈は,間違ってる。」

と考えるのである。

そして,それ以外の解釈を,公の場で,あるいは,個人的に口に出して言えば,

 「出版物のどこに,そんなことが書いてありますか。
  きちんと忠実に,出版物に書いてあることに基づいたことを述べてください。
  奴隷級の解釈とは違うことを言うあなたは,謙遜ではない。
  聖書を独りで読んで,個人的な解釈,あなたの勝手な考えを抱くことは,たいへん危険です。」

などと言うのである。

まったく,ばかみたいな組織だと思う。
ここの,どこに「知恵」があるというのだろう。

自分の「才能」を埋めていないか

さてっと,そろそろまた,「更新」というものをしてみますか。
もしかしたら,更新を楽しみにしてくれてる人もいるかもだから。

今日は,何を話してみましょうかね。

前にも話したことがあるかもしれませんが,
タラントのたとえ話」を取りあげてみましょうか。
これは,うちの掲示板でも話したし,他の人のブログでも話した。
でも,知らない人もいるかもだから,話してみる。


タラントのたとえ話」というのは,エホバの証人なら,
私が,わざわざ説明しなくてもよく知ってる。
それは,「マタイ25章」に出てくる。

ある日,ご主人が旅行に行くことになった。
そして,自分の奴隷たち(いわゆる,現代で言う従業員)を呼び寄せ,
ある人には「5タラント」,別の人には「2タラント」,さらに別の者に「1タラント」をあずけた。

そして,そのご主人の旅行中に,5タラントの人は商売をしてさらに5タラントもうけ,
2タラントうけとった人も,もう2タラントもうけた。

しかし,1タラントうけとっていた人は,何もせず,地面の中に埋めておいた。
だから,もうけはなかったので,主人に厳しく罰せられた。



という話である。


この適用に関しては,ものみの塔協会では,もちろん「宣教」にあてはめられている。
(正確には,「キリストの弟子を作る使命」だとか,
 「宣べ伝える業を十分に行なって天の主人の持ち物を増やすために働く」などと表現されている。)

だから,いわば,宣教(宣べ伝える業)において何の努力もしない人(「弟子を生み出す」面での努力を怠ってる人)は,
主人に裁かれる,という結論に達せざるを得ない。


このJWの解釈(適用)に関しては,現役の時から,何とつまらないものだろうと思っていた。

しかし,「新キリスト教辞典」は,「賜物」という項目で,
このたとえ話に関して,次のように述べる。

「8.賜物をどう生かすか.
 賜物を健全に認識し使用するための知恵もまた,賜物の与え手である神のものである.
 聖書が至る所でそれを教えている.直接賜物に言及している箇所に限らないが,
 イエスの語られたタラントのたとえ(マタイ25:14‐30)はその代表である.
 この話のタラントの原語〈ギ〉タラントンから由来した〈英〉タレントは,
 英語のみならず今や日本語としても「才能」を意味する語として使われるに至った

 ミナのたとえ(ルカ19:12‐27)も同趣旨であるが,この二つの話から,
 hide ones talents in a napkin(自分の才能を持ち腐れにする)という言い回しが生れたほどである.
 両方のたとえ話に共通する「だれでも持っている者は,与えられて豊かになり,
 持たない者は,持っているものまでも取り上げられる」という結論的な教訓は見落せない.
 「持っている」とは,ただ持っているとか,なくさないとかいうのではなく,
 「使っている」という意味である
与えられても使わないのは,持っていることにならない
 賜物は,それを与えた方の意図に従って用いられるために与えられたのである.」

(「新キリスト教辞典」いのちのことば社,1991年。890ページ。)



この「新キリスト教辞典」の説明は,私は現役のJWだった時から知ってるし,
何度も掲示板などで引用して説明してきた。

しかし,今,マーフィー理論が少しずつ分かり始め,
聖書がことごとく,「心の法則」(人の「心の働き」)について述べてるものだと分かってくると,
この「たとえ話」(象徴,比喩)の意味が,もっと,ぐっと心に迫ってくる。

聖書は,「宣べ伝える業」にもっと参加したり,
「弟子を作る」ことについての教訓を述べていたのではなく,
神から与えられたあなたの「才能」(talent)を地中に埋めて,
持ち腐れにしてはいけないよ
,と教えてくれてるのだと。

どんなに少なくても,「1タラント」は与えられてるのです。

しかし,世の中には,その「1タラント」が与えられてることにも気づかず,
いわば,地中に埋めたままで,人生を終わる人が何と多いことだろう。

神は,きっと,その時に,「どうしてそのタラントを生かさなかった
と問われるのだろうと思う。

「自分の理解に頼ってはならない」とは?

さて,koroさんが箴言3:5,6をどう思うか
という興味深い話題を提供してくださったので,
この聖句について,「心の法則の観点から論じてみたいと思います。

では,まず,その聖句を新世界訳から引用してみます。
その聖句とは,こんな聖句です。

 「心をつくしてエホバに依り頼め。
  自分の理解に頼ってはならない。
  あなたのすべての道において[神]を認めよ。
  そうすれば,[神]ご自身があなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」
  -箴言 3:5‐6。[新世界訳]
  http://www.watchtower.org/j/bible/pr/chapter_003.htm#bk5



この聖句も,実に頻繁に,ものみの塔の出版物の中では引用されると思います。
そして,その適用に関しては,「エホバに頼る」こと,
そして,エホバが用いておられる「組織に頼る」ことを勧めるものです。

そして,「自分の理解に頼ってはならない」とは,当然,
「自分の考え,自分の思い,自分の願い,自分の感情」などに頼ってはならないということです。

こうして,自分の「心の声」は無視して,
盲目的に,「組織の言うこと(あるいは,長老や親)に従う」ようになってしまうのです。
(これを突き詰めると,実は,人は病気になります。すなわち,「心の病気」です。)


しかし,聖書は,本当に,「そういうこと」を教えてるのでしょうか?
では,「心の法則」の観点から,この聖句を,少し考えてみたいと思います。


まず,「心の法則」の観点からすると,聖書はことごとく
人間の「心の働き」について言及してると解釈します。

そして,神は,「内なる神」(God presence within you)であると教えます。
すなわち,聖書の教える神とは,「外部」にいるのではなく,「私たちの中に」いるのです。

その自分の「内なる神以外への崇拝」(すなわち,「外部の」人間や環境に頼ること)を,
聖書は「偶像礼拝」とか,「姦淫」(霊的姦淫)と表現して非難しています。
(この意味で,エホバの証人の教え(組織崇拝)は,まさに,聖書の言う「偶像礼拝」です。)

そのことが分かった時に,この聖句は,いい聖句だと分かるはずです。


まず,

 「心をつくしてエホバに依り頼め


と述べています。

これは,つまり,あなたの「内なる神に」頼れということです。(「外部の」何かに頼るな,の意。)
そこまでは,いいでしょう。


次に,

 「自分の理解に頼ってはならない


と述べています。

これは,どういう意味でしょうか。

私たちの「考え」は,大方,「ネガティブな傾向」があります。
だから,よっぽどの傲慢な人間か,うぬぼれた人間でもない限りは,
たとえば,何かを始めたり,何か新しいことに挑戦しようとする時に,
自分に関して,次のように「消極的に考えたり」するのです。

 「自分にはできない」「無理だ(不可能だ)」「やっても無駄だ」
 「誰もやったことがない」「経験がない」「お金がない」「外見が悪い」,etc・・・。


私が思うに,そういう,自分に「限界」を設けたり,「ネガティブ」にとらえたり,
自分の「能力のほんの一部分」しかとらえられない「顕在意識」の段階で
無理だと思うような,そういう「自分の(小さな)理解」に頼ってはならない
と教えてるのだろうと私は思います。


だから,次に,聖書は,こう述べるのです。

 「あなたのすべての道において神を認めよ


と。

これは,要するに,自分の中の「内なる神を信じろ」ということ,
言い換えれば,"Believe in yourself"「自分を信じろ!」という意味です。

顕在意識のほうでは,「無理だ」「自分にはできない」という言葉が何度も聞こえてくるのです
しかし,そういう声に耳を傾けるのではなく,自分の中に住む「全能の神」,
「あなたを必ず助ける」と言っておられる神を信じろ!ということです。


 「そうすれば,神ご自身があなたの道筋をまっすぐにしてくださる」。


この部分は,英語では,こうなってます。
 
 "and he himself will make your paths straight."

この"he himself"という訳し方は,いい訳し方だと私は思います。
この部分のヘブライ語は,人称代名詞がわざわざ用いられ,その部分が「強調」されているのです。
すなわち,「he(神)」という言葉を強調しているわけです。

これは,どういう意味か。
それは,他の人じゃない,「神ご自身が」,あなたを助けるとの約束です。

だから,「神に頼れ」って言ってるんです。聖書は。


他の人は,「お前には無理だよ」と言うかもしれない。
そして,自分も正直,心の中では,「自分には無理かもしれない」と同じように感じる。

周りからは無理だと言われ,自分もそう思う
この時,私たちは,致命的な打撃を受け,本当に無理だと感じてしまいます。
そして,私たちの中からは希望は消え,やる気はうせ,目の輝きは消え失せるのです。

そして,その「弱い自分」,「折れそうな自分」,「ほんとうは恐い」と思ってる自分に
時には負けそうになる。


しかし,聖書は,「そういう自分の理解に頼るな」って教えてるんです。
自分の「表面的な理解」,「狭い人生経験」からしか導けない理解,
あらゆる知識を持ってるわけではない自分の「今の理解」,
あらゆる可能性を把握できない,自分の「小さな理解」,
消極的な自分」,そういうものに頼るな,と。


あなたの中には,あなたの心の深い部分には,「全能の神がいるのだ」と聖書は教えます。
すなわち,聖書が「I AM」と言ってる方です。

だから,周りがなんと言おうと,「神の助け」があれば,何でもできるはずなのです。

だから,何もしないうちに,何も挑戦しないうちに,自分には無理だと考えるのは,
本当は,心からは,神を信じていないのです。

だから,「神(I AM)を信じる」とは,「自分を信じる」という意味です。


ましてや,これは,「ものみの塔協会(外部の人間)の教えに頼れ」という意味では断じてない。
そう私は思う。

あなたは,「王」となるために生まれてきた。

さてっと。

しばらく更新してなくて「訪問者も少なくなった」ところで,
次の記事を書いてみますかね。

今日は,ヨハネ18:37を見てみたいと思います。
この聖句は,こんな内容の聖句です。

「それでピラトは彼に言った,
 「それでは,あなたは王なのだな」。
 イエスは答えられた,
 「あなた自身が,わたしが王であると言っています。
  真理について証しすること,このためにわたしは生まれ,
  このためにわたしは世に来ました。
  真理の側にいる者はみなわたしの声を聴きます」。」
  -ヨハネ 18:37。[新世界訳]
  http://www.watchtower.org/j/bible/joh/chapter_018.htm#bk37



これは,エホバの証人にとっては,ごくありふれた聖句です。
何度も何度も見ています。

だから,これといって感想はありませんが,
この聖句に関して,もう何年も前に,
私がまだ,マーフィー理論の大切さを知らない時に,
マーフィー博士の解説を見て,「衝撃」を受けたことがあります。
今日は,そのことを少しふまえて,話してみたいと思います。


この聖句に関して,まず言いたいのは,
語順」が大切だということ。

実は,うちのサイトに少しだけ作ってある「possible訳」は,
可能な範囲で「語順」にこだわってます。
つまり,なるべくギリシャ語の原文のとおりになってるということです。
これ,案外,難しいんですけど,そこに私の「こだわり」があるわけです。

そして,実は,英文新世界訳も,「字義訳」として「語順」にこだわってます。
しかし,残念ながら,日本語版では,この語順が,おおむね「無視」されています。

まあ,日本語だから,しょうがないと言えば,しょうがないのかもしれませんが・・・。
しかし,英語のバージョンのが語順に「こだわってる」ため,
日本語版には,その「こだわり」がないのが,おかしいと私個人は思うのです。


では,その「語順」にこだわる英語のバージョンでは,
この聖句は,どうなってるのか。

“Therefore Pilate said to him:
 “Well, then, are you a king?”
 Jesus answered:
 “You yourself are saying that I am a king. For this I have been born,
  and for this I have come into the world, that I should bear witness to the truth.
  Everyone that is on the side of the truth listens to my voice.””
 JOHN 18:37. (NWT)



大切な部分は,「赤い文字」で示しておきました。

赤い文字の部分を抜き出して読むと,こうなります。

 「王となるために私は生まれてきた。」



このように読むと,この聖句は「実にいい聖句だ」と感じます。

 「王となるために,あなたは生まれてきた。」

そう聖書は教えているのです。


私は,傲慢な人間が嫌いです。
だから,傲慢で不遜な人間に対して,私は,このように言うつもりはない。

しかし,エホバの証人の教理の中で育てられた「謙遜な人」は,
私の言ってる意味を,きちんと理解してくださると思う。

あなたは,「何のために」生まれてきたのか?
そう,聖書は,こう述べる。

 「あなたは王となるために生まれてきた

のだと。


実は,私たちは,誰もが自分の中の心の王国」の王なのである。
その中では,あなたが「」である。

だから,その王国を,良くするも,悪くするも,「あなた次第」である。
「あなたが」それを決めるのだ。


それは,いつも怒りや,いらいらした気持ちでいっぱいの「王国」か。
それとも,平安に満ち,いつも笑顔の絶えない「王国」か。

そこに住んでる「住民」は,どうか。
「不安」や「心配」や「怒り」や「嫉妬」や,
もろもろのネガティブな感情という「住人」が,
あなたの王国の中に住み着いていないだろうか。

それとも,あなたは,それらの「ネガティブな住民」に警告し,
処罰し,厳しく接し,時には,確固とした態度で「追い出す」だろうか。
それとも,それらの住民をあまやかして,
「平安」や「希望」や「喜び」などの「ポジティブな住人」を,いつまでも苦しめたままでいるのか。


時には,外部から,「ネガティブな攻撃」を受け,
あなたの王国の平安が,かき乱されそうになることがある。
その時,あなたは,その王国の「王」として確固とした立場をとり,
そのネガティブな侵入者が入らないように,防御をかためるだろうか

それとも,その侵入者が王国の中に入ってくるのを簡単に許し
その王国を不安にさせるのか。


イスラエルの「王国」というのは,実は,
この「心の王国」(神の王国)を予表していたのだと私は思う。
だから,時には,「厳しく」あたったのである。

戦争の時に,敵を「一人も残してはならない」との,一見,残酷とも思える神の命令は,
この心の王国の中に,「ネガティブな影響を一切残してはならない」という意味だと私は解釈してる。

「夫」は「顕在意識」

たぶん,それほど見る人もいないと思うので,
「ひとりごと」的なことを書いてみる。
説明が「正しいかどうか」には,こだわらない。

マーフィー博士の「潜在意識の法則」(心の法則)から見ると,
聖書は,ことごとく,人の「心の働き」について述べているという。

そして,聖書の言う「」とは「顕在意識」を,
」は,「潜在意識」を意味する。
それは,多くの場合,文字どおりの意味ではない

しかし,それは,よく分かってはいても,
いざ,自分で実際に聖書を読んでみると,「聖句の意味」は説明しづらい。


しかし,正しいかどうかは別として,自分なりに説明を試みてみる。

たとえば,コリント第一7:39。
これは,エホバの証人の間では,「エホバの証人(信者)とのみ結婚する」
という説明の根拠となっている。
その聖句とは,こんな言葉である。

「妻は夫が生きている間はずっとつながれています。
 しかし,もし夫が[死の]眠りにつくことがあれば,
 彼女は自分の望む者と自由に結婚できます。
 ただし主にある[者と]だけです。」
 -コリント第一 7:39。[新世界訳]
 http://www.watchtower.org/j/bible/1co/chapter_007.htm#bk39



まず,この聖句を見て,目に付くのは,「死の」という言葉である。
これは,「角かっこ」の中にあるので,「原文にはない」挿入句であることが分かる。
だから,文字どおりに読めば,

 「夫が眠りにつくことがあれば」



である。

おそらく,「生きている」という言葉の反意語として,
「死」という原文にない言葉を挿入したのであろう。

しかし,文字どおりに読めば,夫が「眠り」につけば,である。


これは,夫が「顕在意識」と考える「心の法則」からすれば,
興味深い説明である。
すなわち,夜,私たちが「眠り」につき,
顕在意識(夫)の「活動が停止」すると,
その時から,「潜在意識」(妻)が活発に活動を開始するのである。

では,「結婚」とは何か。
それは,その人の,心の「願い」「望み」「願望」,
そうしたものを叶えるために,潜在意識がそれと「結びついて
活動することを意味するのではないだろうか。

だから,「心配」や「不安」を抱きながら眠りについてはいけないのである。
潜在意識がそれらと結びついて(いわば「結婚」して),
「その心配を叶えるために」活動してしまうからである。



さて,

「ただし主にある[者と]だけです。」


という部分に関しては,意味がよく分からない。

「者と」という言葉は,角かっこにあることから分かるとおり,「原文にはない」挿入句である。
だから,直訳は,「ただし主にあるだけです」である。

さらに,「ただし」という言葉も,「です」も,原文にはない

では,私は,何と訳そうか。

 「ただ,主の中で」
 「主の中でのみ」
 「ただ,主の中でだけ」

 「ただ,主のうちに」
 「ただ,主にあって」

あるいは,ギリシャ語の前置詞「エン」を
「手段」(~によって)と考えるならば,「ただ,主によってのみ」とも訳せる。
(たとえば,コリント第一6:2。
 そこでは,この前置詞は,"by"「~によって」と訳されている。)


これは,要するに,主(I AM,内なる神)の中で,
まかれた種(願望)が芽を出し,やがて「願いが叶う」ことを教えている。


これは,「主にある者とだけ結婚する」ことを勧める聖句ではない。
そう感じる。
好きな音楽
Terra's Theme (ファイナル・ファンタジー6)


アリア・ディ・メッツォ・カラッテーレ(ファイナル・ファンタジー6)
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