元エホバの証人一世、possibleの“独り言”的ブログ

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外人にもよく知られている「仏陀の言葉」

今日は,外人(西欧諸国)にもよく知られている

 「仏陀の言葉

を,皆さんに紹介してみたいと思う。
(案外,日本人のほうが知らないかもしれない。)


まずは,この「仏陀の言葉」が,
海外(西欧諸国)でもよく知られている証拠として,
先回紹介した動画(「富の秘訣」)を作った,「ザ・シークレット」
のウェブサイトに置いてある「壁紙」を紹介したい。

title="http://thesecret.tv/treasures/wallpapers/buddha/buddha_1024x768.jpg">http://thesecret.tv/treasures/wallpapers/buddha/buddha_1024x768.jpg


(自分の好きなサイズの壁紙は,以下のアドレスから選べる。
http://thesecret.tv/secret-treasures-PDF-and-Wallpaper.html


さて,この,「ザ・シークレット」のスタッフ(外人)が作った「壁紙」,
一見して分かるが,その背景に写ってるのは,
いわゆる「鎌倉の大仏」である。

それは,もちろん,「仏陀」(釈尊)ではなく,
正確には,「阿弥陀如来」(阿弥陀仏)である。

「仏陀」(釈尊)の言葉を紹介してる箇所で,背景が「阿弥陀仏」
というものに,「違うのではないか」というツッコミは,
あえて,ここではしない。(笑)

問題は,そこで紹介されてる「仏陀の言葉」である。
こう書かれている。

All that we are is the result of what we have thought.
(オール・ザット・ウィー・アー・イズ・ザ・リザルト・アヴ・ワット・ウィー・ハヴ・ソート)

 - Buddha (ブーダ)



この言葉は,訳すと,こういう意味である。

私たちのすべては,私たちが考えたことの結果思考の結果である。」



これは,まさに,「心の法則」を述べてるのではないだろうか。
驚くべきは,この言葉を「釈尊」(仏陀)が,
今から 2500年も前に言っていた
,という事実である。


さて,この「仏陀の言葉」,仏教の「何千巻」もある教典の中の,
どの教典に書いてある言葉なのであろうか
(仏教においては,その膨大な数を,
 象徴的に,「八万四千(はちまんしせん)の法門」と呼んでいる。)

私は,かつて,アール・ナイチンゲール博士の
人間は自分が考えているような人間になる!!
という書物の中に,この「仏陀の言葉」が引用されていたことを知っていた。
しかし,私は,今まで,この仏陀の言葉の「引用元」(教典名)を知らなかった。

こういう時,やはり,著作権法で求められてる「出所明示義務
というものを果たしてくれていると,助かる(見つけやすい)のである。
しかし,海外の資料では,多くの場合,
ただ「仏陀がそう言った」と書いてあるだけだ。


こういうのは,日蓮宗で言えば,「文証」(もんしょう)と言われて,
非常に「重要な部分」なのである。
日蓮聖人だったら,こういう時は,何よりもまず,

 「(いか)なる経文ぞや
 (その言葉は,どの教典に書かれていますか


と訊ねられるだろうと思うので,
そういう,日蓮的「論理的思考」に慣れてる者からすると,
ただ「仏陀の言葉」として人々に紹介するのは,非常に「不親切」だと感じる。

いや,それ以前に,彼らはその「出所」(どの経文に書いてあるのか)を,知らないのかもしれない。
そもそも,「仏陀の言葉」を紹介してる壁紙の背景に,
阿弥陀如来」(鎌倉の大仏)を使用してる意味が分からん


ま,そのような「ツッコミ」は,ここでは置いといて,
その「仏陀の言葉」が,「どの教典」に書いてあるものなのかを紹介してみたい。

私は,その「英文」をグーグルで検索してみた。
そして,ある記事を見つけた。
そこには,「ダンマ・パダ」(The Dhammapada, Verses 1-2)と書いてあった。
http://www.teosofia.com/Mumbai/7203thought.html
http://www.maithri.com/dhammapada.htm#Chapter
(こういうのが,いわゆる「出所明示義務」というやつである。)

ダンマ・パダ」とは,日本語では「法句経」(ほっくきょう)と呼ばれ,
初期の仏教教典(小乗仏教の教典)の一つである。
もっと一般的には,「阿含経」(あごんきょう)と言われている教典群
(特に,「小部」と呼ばれてる部分)の中に,
この「ダンマ・パダ」(法句経)が含まれている。


その「法句経」の冒頭部分には,こう書かれている。

なにごとも心から始まり,心が主役で,心でできている
 もし汚れたで話をしたり,なにかをすれば
 牛に荷車がついてくるように,不幸はその人についてくる

 なにごとも心から始まり,心が主役で,心でできている
 もしきれいなで話をしたり,なにかをすれば
 影が人から離れないように,幸せはその人から離れない」

http://76263383.at.webry.info/200911/article_4.html
(上記のサイトには,「パーリ語」の原文も載っている。)


あまりにも,真理が「簡潔に」表現されていて,恐ろしいほどである。
しかも,これが,その教典の「冒頭の言葉」であるということにも。

これを,今から2500年も前の釈迦(釈尊)が説いていたのである。
ここで言ってることは,まさに,「心の法則そのもの,ではないだろうか。

ご注意
 「ダンマ・パダ」(法句経)とは,すなわち,「阿含経」のことで,
 一般には,「小乗仏教」と呼ばれている仏教の経典である。
 それゆえ,その教えは,「煩悩を滅する」という点に力点がおかれている。
 だから,もし,その教典(「小乗仏教」の経典)全体を読むとすれば,「注意」が必要である。
 
 それは,今までに紹介してきた「大乗仏教」の経典,
 たとえば,「理趣経」などのように,
 「煩悩」自体を「肯定」してるものとは,大いに異なる。
 http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-55.html

 大乗仏教では,「煩悩即菩提」(ぼんのうそくぼだい)と言われ,
 煩悩を「滅する」ことではなく,それを「昇華」することを勧める。
 
 私は今,この記事で,「煩悩を滅する」ことを教える「小乗仏教」的
 な教えを指して,「心の法則」と言ってるのではない。
 「心の法則」(マーフィー理論)は,自らの「願い」(煩悩)に正直になり,
 それを素直に「求める」ことを教える。)


さて,アール・ナイチンゲール博士の本では,この仏陀の言葉は,

牛が車を引くように,思考も人間を引っ張っていくのだ

(アール・ナイチンゲール著「人間は自分が考えているような人間になる!!」 騎虎書房,1988年。33ページ。)


と訳されている。

そう。私たちの「」(思考)が,
現在の,また,将来の私たちを形作っていくのである。
「考えていること」が,私たちの人生を作るのだ。
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-57.html


では,最後に,「法句経」の160という箇所に
書かれてる言葉を紹介して,この記事を終わりにしたいと思う。
これもまた,素晴らしい言葉である。

自己こそ自己の寄る辺なり
 他の何者が寄る辺になろう
 自己を調御するならば
 得がたい寄る辺を獲得す」

http://76263383.at.webry.info/201003/article_2.html



「法華経」と同様,この「法句経」という初期の教典も,

 「あなたがあなたの(究極の)救い主

なのであり,それ以外のところ(あなたの「外部」)救いを求めても
そこに,本当の助けがあるわけではないのだ,
ということを,我々に教えてくれている。
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-51.html

そう。

 あなたの人生は,あなたが主役

なのだ。



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「理趣経」(りしゅきょう)の教え

大乗仏教の経典に,

 「理趣経」(りしゅきょう)

という名の教典がある。

正確には,「大楽金剛不空真実三摩耶経」(たいら・きんこう・ふこう・しんじ・さんまやけい」
または,「般若波羅蜜多理趣品」(はんにゃ・はらみた・りしゅぼん)と言う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E8%B6%A3%E7%B5%8C

これは,大乗仏教の中でも,とりわけ,
真言宗」(密教)が用いてる教典である。

興味深いことに,この教典は,他の教典とは違って,
「呉音」(ごおん)ではなく,「漢音」(かんおん)で読む。
「漢音」とは,英語で言えば,「カタカナ英語」みたいなものか。


さて,この教典は,なにゆえ「漢音」で読むのかという理由に,
わざと」漢音で読むことによって,経文を読みなれた人にさえも
聞いただけでは意味をつかめないようにしている」というのがあるという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E9%9F%B3

じゃあ,その,「わざと分からないようにしてる」教典の内容とは?

気になるのではないだろうか。
そこで,ここで紹介してみる。

このような内容が書かれてある。


妙適 淨句 是菩薩位(びょうてき せいせいく しほさい)
「男女交合(sex)の妙なる恍惚は,清浄なる菩薩の境地である。」

慾箭 淨句 是菩薩位(よくせん せいせいく しほさい)
「欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも,清浄なる菩薩の境地である。」

淨句 是菩薩位(しょく せいせいく しほさい)
「男女の触れ合いも,清浄なる菩薩の境地である。」

愛縛 淨句 是菩薩位(あいはく せいせいく しほさい)
「異性を愛し,かたく抱き合うのも,清浄なる菩薩の境地である。」

一切自在主 淨句 是菩薩位(いっせいしさいしゅ せいせいく しほさい)
「男女が抱き合って満足し,すべてに自由,すべての主,
 天にも登るような心持ちになるのも,清浄なる菩薩の境地である。」

淨句 是菩薩位(けん せいせいく しほさい)
「欲心を持って異性を見ることも,清浄なる菩薩の境地である。」

適 淨句 是菩薩位(てきえっ せいせいく しほさい)
「男女交合(sex)して,悦なる快感を味わうことも,清浄なる菩薩の境地である。」

淨句 是菩薩位(あい せいせいく しほさい)
「男女の愛も,清浄なる菩薩の境地である。」

http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/risukyou.htm




一見して分かるが,仏教について何も知らない人が読めば,
たちまちに「誤解」してしまうような内容が書かれているのである。

興味深いことに,日本に真言宗を広めた弘法大師・空海は,
天台宗の開祖,最澄から,「理趣経」の解説本である「理趣釈経」を借してくれ
とお願いされた時に,それを断わった。
以後,二人の交流はなくなったことが知られている。

空海が最澄の申し出を「断わった理由」については明らかにされてはいないが,一般には,
この「理趣経」の内容が,間違って解釈されることを恐れたためとも言われている。
仏教の専門家(ある宗派の宗祖)でさえ,「誤解する危険性がある」ほどなのである。
http://www4.ocn.ne.jp/~yamamtso/newpage51.htm


しかし,この教典,実際に(漢音)を聞いてみると
荘厳」と申しましょうか,瞑想するにはふさわしいと感じます。
http://www.ichigenkuyou.jp/risyu.mp3
上記のアドレスを右クリックして,対象をファイルに保存でダウンロードできます。

http://www.ichigenkuyou.jp/risyu.htm


特に,この教典の中の

見 淨句 是菩薩位(けん せいせいく しほさい)
欲心を持って異性を見ることも清浄なる菩薩の境地である。」



と言ってる部分は,JWの教理によって,変に自分を傷つけ
自分を抑圧し痛めつけてきた私としては,「感動」さえ覚える。

はっきり言えば,私は,自分が現役のエホバの証人だった頃,
自分の罪悪感で,「自尊心」をまったく持てなかったのである。
(JWの教理では,マスターベーションでさえ「禁止」される。
 それどころか,「性欲」自体を否定的に見る。)


ところが,真言密教にとっては,それさえも,

 「大日如来」(神)が人間に与えたもうた
 「素晴らしい欲望の一つ

なのである。


どこまでも「自分を肯定」する宗教。

自分にどこまでも「素直」でいられ,
自分に誠実であれ」(自分にウソはつくな)と教えてくれる宗教。

自分の「ありのまま」を素直に認めて,それを「否定しない」宗教。

それは,「本来,素晴らしいものだ」(自然なのだ)と教えてくれる宗教。

それは,その内容を「誤解」したり,「極端」になったりしなければ,
本当に素晴らしいことを教えてくれてる教典であり,宗教なのだと私は思う。


あなたも,自分を責めるのはもうやめて
自分の素晴らしいところに,目を向けてみないか?

そして,自分の「気持ち」や「感情」(心の声に素直に耳を傾けて
あなたの「」が欲しいと思うもの(願い)があるのなら,
正直に,そして大胆に,「それが欲しい」と,言ってみないか。
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-25.html

それは,あなたの心があなたに対して,
「それが必要だ!」と言ってるものなのである。



「無我」とは?

さて,今まで,「仏教」と「心の法則」(マーフィー理論)の“共通点”について,
私の理解してる範囲で説明してきた。

その「共通点」の中には,

 「自分以外のものに頼るな!
 (本当に(究極的に)頼れるものは,“自分”しかいない。)


という点があると思う。

そして,どちらも,“自分の中に
」,あるいは「」(内なる神)がいる,と教える。

「仏教」では,それを「九識心王真如の都」(アマラ識,阿摩羅識,仏性など)と表現し,
「心の法則」では,「I AM」(本当の自分内なる神)と表現したりする。


しかし,初期の仏教(原始仏教)では,

 「無我」(むが)


と言って,心の法則で言うところの「I AM」(内なる神)を否定しているように思える

実際,この「無我」の「」というのは,
サンスクリット語(梵語)で「アートマン」(aatman)と言い,
その「アートマン」()とは,実質的には,
バラモン教(古代ヒンズー教)の究極の神「ブラフマン」のことを指す。

宇宙の中のすべてのものは,その「ブラフマン」から生じたと教え,
その「ブラフマン」(梵)と自分の中の「アートマン」()が
一体(梵我一如)になることによって解脱を目指すことを,
バラモン教(古代ヒンズー教)では教えた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3


釈尊は,その「アートマン」(= ブラフマン)を否定し
それに「否定」の言葉(An)をつけて

 "anaatman"「アナートマン」(サンスクリット語)

と表現した。
それを日本語に訳すと,「無我」(あるいは,「非我」)となるのである。

だから,「無我」とは,単に,「我(自我)を消す」という意味ではなく,
実際には,アートマンの否定(アナートマン,anaatman),
つまり,バラモン教を否定してるのである。


釈尊が,なぜバラモン教を否定したのかは,私にはよく分からないが,
当時の事情(背景)を考慮すると,おそらく,
当時の厳格な「カースト制度」(身分制度)に対する批判や,
その宗教制度の「最高位」に位置して,人々を牛耳っていた
祭司級」(バラモン)を否定するためではないかと推測する。

実際,その祭司級は「ブラーフマナ」と呼ばれ,
それは,その神「ブラフマン」(アートマン)と,実質,同じ意味である。
あるいは,ブラフマンと一体(梵我一如)の存在であると考えられていた。

だから,釈尊が「無我」(アナートマン)と表現した時,
そこには,バラモン教の「祭司級」や「身分制度」(カースト)などを
否定(拒否)する意味も含まれていたのだと思われる。

(あるいは,断定するわけではないが,初期の仏教は,その「無我」説により,
 「輪廻」や「業」(カルマ)や「神々」の存在も否定したの“かも”しれない。
 釈尊は,現代的に言えば,「科学的に物事を考える人」であり,
 その種の考えは,釈尊にとっては「非科学的」なものだったと思われる。)


さて,こうして,初期の頃(小乗仏教)には,
いったん,バラモン教を否定するために「無我」(アナートマン)
と教えた釈尊の教えも,後の「大乗仏教」(特に天台宗や日蓮宗)になると,
やや,違う風になってくる。

「大乗仏教」では,アートマン(我)のさらに奥(内側)に,

 大我(たいが),あるいは,真我(しんが)

と呼ばれるものがあると教える。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91

サンスクリット語(梵語)では,それを
パラマートマン」 (parama-aatman)と言うらしい。


私たちの「」(内面)を分析すると,
一番上の表層には,「エゴ」(自我)というものがあり,
その奥に,「アートマン」(実我)があり,
さらにその奥には,「パラマートマン」(大我真我)がある。

仏教は,その「エゴイズム」(自我)や「アートマン」(実我)を否定して
無我」と教え,この「無我」の姿勢(境地)こそが,
そのさらに奥にある大我」(真我,パラマートマン)
の発見(発揮)につながると教える。
(この「無我の境地」になるために,たとえば禅宗では「座禅」(瞑想)をしたりする。
 ちなみに,座禅の時には,人間の脳は「α波」になることが知られている。)


興味深いことに,この「無我」は,
サンスクリット語では「アナートマン」という言葉であることは説明したが,
パーリ語では,「無我」は,

 「アナタ」(anatta

と言うのである。

そう。

 あなた

である。


 「無我」 = 「アナタ」(パーリ語)


という「関連性」は,日本語の持つ響きでないと
分かりづらいものがあるようにも私には思える。
(私の個人的な意見です。)


あなたが,普段,表層意識において「わたし」(我,自己)
として認識してる自分の「内面」を深く見つめ,
その奥にあるものを深く探っていくと,そこには

 「本当のあなた」(真の自己

と呼べるようなものが存在するのである。

それこそが,仏教で言うところの「九識心王真如の都」(アマラ識,仏性)であり,
心の法則(マーフィー理論)で言うところの「I AM」(内なる神)なのである。



「冬」の時に

今日は,「わたしの好きな言葉」を紹介してみる。

「法華経を信ずる人は冬のごとし
 冬は必ず春となる

 (日蓮聖人著「妙一尼御前御消息」 54歳の時の記述)

 ※ 日蓮聖人は,実際には,「法華経」とは書かず,
   常に,「」と書いた。
   「法華経」という書き方は,現代人による編集
   であり,日蓮聖人の書き方ではない。
   「」と書く時,その「」が咲く日をイメージできる。



私たちの人生には,時として「」とも呼べるような,
つらい時期」を経験することがある。

今の時期だと,たとえば,「受験」,「就職」,また,
愛する人との「別れ」(生き別れ,死に別れ)だとか,いろいろあると思う。


時に,人は,そうして深く傷つき,
自信をなくし,自尊心を失い,
孤独を感じ,愛を失って,
中には,「死」を選んでしまう人もいる。

私自身,ずっと「死にたい」と思ってた時期があった。

しかし,今は,「生きててよかった」と思ってる。


あなたは,,そういう「つらい時期」に直面しているだろうか。
もしかしたら,,「泣いて」はいないだろうか。


なら,今,どうか,次のことを「信じて」ほしい。

 「冬は必ず春となる

ということを。


つらい時には,その長い「」のような時期が
いつまでも続くように思えて
「ほんとに,そんな日が訪れるのだろうか」
と思うかもしれない。

だが,深く強く信じる」ことだ。

やがて,雪が溶け,空が晴れ渡り,
暖かな「」のような日々が
必ず訪れる,ということを。

あなたは,「しあわせ」になるために生まれてきたのだ。
http://godpresencewithin.web.fc2.com/pages/love/shiawase.html





「天上天下 唯我独尊」(てんじょうてんげ・ゆいがどくそん)

今日も,「仏教」ネタを一つ。

仏教」の創始者は,誰もが知っているとおり,「釈迦」(しゃか)という人である。
仏教徒は,釈迦を尊重して,「釈尊」(しゃくそん)と呼ぶ。
(私も,このブログの記事では,そう呼ばせていただく。)

日本人は,親しみを込めて彼のことを「お釈迦さま」と呼ぶが,
そもそも「釈迦」とは,彼が「釈迦族」の王子として生まれたから,そう言われるのである。
だから,「釈迦」とは,もともとは彼の「種族名」であり,
その意味は,梵語(サンスクリット語)で「力ある者」「能力」という意味がある。
(その意味は,ヘブライ語の「神」(エール)と似ている。)


仏陀」(ブッダ)とも彼は言われるが,これも,彼の名前ではない。
それは,梵語で「覚者(かくしゃ)」,
つまり,「真理を覚(さと)った者」「真理に目覚めた人」という意味である。
(その意味は,ヘブライ語の「メシア」,ギリシャ語の「キリスト」と似ている。)


彼の名前は,「ガウタマ・シッダールタ」として一般には知られている。
「ガウタマ」というのが姓で,「最もすぐれた牛」「最良の牛」という意味がある。

そして,「シッダールタ」(パーリ語では「シッダッタ」)が彼の名前で,
それには,「目的を成就する」という意味がある。
しかし,この名も,実は,彼の元々の名ではなく,「後世の命名」であると言われている。
(この「目的を成就する」という意味は,聖書の神の名の意味を思い起こさせる。
 すなわち,「彼は成らせる」である。)


さて,彼の父(釈迦族の王)は,「浄飯王」(じょうぼんのう)と言い,
母は,摩耶(まや。梵語「マーヤー」)と言った。
(どことなく,イエスの母「マリア(マリヤ)」と発音が似ている。)


この夫婦の間には,残念ながら,長年,子供が生まれなかったようである。
結婚後,「数十年」もの間,彼らの間には子供がいなかった。
だから,彼らに子供ができた時,両親はどんなに喜んだことだろう。

私たちは,釈尊といえば,「ものすごい偉い人」という印象しかないが,
その釈尊とて,「誰かの子」なのである。
その意味では,彼を生んだ両親のほうが彼より偉いのである。


さて,伝説によれば(実際には,「長阿含経」などに記されているが),
釈尊は,誕生直後,すぐに七歩あゆみ,立ち止まって右手をあげ,

 天上天下 唯我独尊
 (てんじょうてんげ・ゆいがどくそん)


と唱えたと伝えられている。

その意味は,ものみの塔協会の「宗教は人類の為に何を成したか?」という本(183ページ)によれば,

 「(われ)は全世界に於(おい)て第一の者である

という意味である。


唯我独尊」(ゆいがどくそん)は,訓読みすると,

 「(た)だ 我(わ)れ独り 尊し

と読む。

ひろさちや氏によれば,その「天上天下 唯我独尊」の意味は,

 「宇宙間に存在するすべてのものの中で,自分より尊いものはない

という意味である。
そして,これは,「釈迦の衆生(しゅじょう)救済の自信と決意を端的にあらわしたことば」である。


私はかつて,その言葉を誤解し,なんと「独善的」,そして
なんと ごう慢な言葉なのだろう」と思ったことがある。
もし,これが,「釈尊のみ」に当てはまる言葉ならば,正直,そう感じる。

しかし,この言葉も,「心の法則の観点から見ると
実に,「いい言葉」だと分かる。

それは,「法華経」にある

 「(ただ)(わ)れ一人(いちにん)のみ 能(よ)く救護(くご)を為(な)

と言う釈尊の言葉と同じような意味である。

その「法華経」の言葉に関しては,私は,こう説明していた。

この法華経の言葉も,「心の法則の観点から読むと
実に,素晴らしいことを教えてると私は思う。

すなわち,「I AM」(「我」,われ)のみが救いを施すのである。

言い換えれば,「あなたがあなたの究極の救い主」なのであり,
それ以外のところ(あなたの「外部」)に「救い」を求めても,
そこに,本当の助けがあるわけではないのである。


http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-9.html




この観点で,もう一度,釈尊が生まれてすぐに言ったとされる言葉,すなわち,

 「天上天下 唯我独尊
 (てんじょうてんげ・ゆいがどくそん)

という言葉の意味を考えてほしい。

この言葉を,「自分自身の言葉として
自分に当てはめて」言ってみていただきたい。

すると,その意味は,

 「あなたほど大切な人は,この世にいない

という意味だと分かるだろう。

そして,本当の意味で「自分の人生を変えられる救えるのは
自分しかいない」(あなたしかいない)のだ
,と分かるはずだ。


しかし,もし,仮に,この言葉は,明らかに
「釈尊」自身について述べてるのだ(釈尊のみに当てはまる言葉)と判断したとしても,
日蓮によれば,「とは私たちの中にいるのである
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-23.html

彼(日蓮聖人)は,こう述べた。

「抑(そもそも)地獄ととは いづれの所にとたづね候(そうら)へば,
 或(あるい)は地の下と申す経文もあり,
 或は西方(さいほう)等と申す経もしかれども
 委細(いさい)にたづね候(そうら)へば
 我等が五尺の身の内に候とみへて候(そうろう),
 
 さもや をぼへ候事は 我等が心の内に父をあなづり母を愚かにする人は
 地獄 (そ)の人の心の内に候,・・・
 仏と申す事も 我等の心の内に をはします

(日蓮聖人著「十字(むしもち)御書」)



だから,「独尊」の「」(われ)とは,
「心の法則」で言うところの「I AM」(内なる神)と同じ意味である。
(と私は思う)


「仏教」も,「心の法則」も,実は,
この「自分の中にいる」(あるいは,「」)への信仰を教えているのである。

(「仏教」の場合は,さらに,自らが「仏」(ブッダ),すなわち「覚者」のひとりになることを教える。
 その意味で,仏教とは「仏の教え」であると同時に,「仏になるための教え」である。
 
 日蓮聖人は,その「」とは,どういうものかを説明し,
 

「夫(そ)れ 浄土と云(い)うも地獄と云(い)うも
 (ほか)には候(そうら)はず
 ただ我等(われら)がむね(胸)の間(あいだ)にあり
 これをさとるを仏(ほとけ)といふ
 これにまよ(迷)ふを凡夫(ぼんぷ)と云(い)う」

 (日蓮聖人著「上野殿後家尼御返事」 53歳の時の著述)


 と述べた。)


それ(「内なる神」,あるいは,「九識心王真如の都」)は,
確かに,「天上天下 唯我独尊」と言える力を持っている。
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-38.html


「唯識」と「潜在意識」の法則

「大乗仏教」の教えの中に,

 「唯識」(ゆいしき)

と呼ばれる一つの学説がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98

これを教えてるのは,特に,「法相宗」(ほっそうしゅう)と呼ばれる宗派で,
開祖は,あの西遊記でおなじみの「三蔵法師」(玄奘)である。

日本における総本山は,奈良の「薬師寺」などが有名である。
(かつては,「法隆寺」や,京都の「清水寺」なども,そうだったようである。)


この「唯識」という教義は,非常に複雑で,簡単には説明できないが,
要するに,「すべてのものが心から生じる」という教えである。

興味深いのは,心の働きを八つの部分に分け,
一番深い部分(深層部分)に「阿頼耶識」(アラヤ識)というのがあると教えてることである。

「アラヤ」(サンスクリット語「アーラヤ」)とは,「」,
または,「住居」「場所」という意味だそうで,
そこに,私たちの「なすこと」「言うこと」「思うこと」のすべてが
経験として消えることなく残り,また,すべてのものを生み出す
種子(しゅうじ。可能性)が,そこに宿っているという。

これは,現代で言うところの「潜在意識」と同じである。


この「潜在意識」は,現代になって,フロイトとかユング
という心理学者が発見したように思われているが,
大乗仏教では,二千年の昔から,そういうことが教えられていた
というのは,驚きだと思う。


さて,この「唯識」という学問。
実は,その後,さらに研究・改良されて,
「法相宗」では,心の働きを八つに分けて,「八識」だったのが,
「天台宗」や「日蓮宗」では,さらに一つ加えて,「九識」(くしき)になっている。

そして,その「アラヤ識」(潜在意識のさらに奥に
もう一つのものがあると教えた。

日蓮聖人は,それを

 「九識心王真如の都」(くしきしんのうしんにょのみやこ)

と表現した。

そして,それを「妙法蓮華経」と名づけ,
その「九識心王真如の都」に向かって,「南無妙法蓮華経」と唱えたのである。
外にある何かに向かって拝んでいたのではないのである
これは,多くの人が知らない点だと私は思う。
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-23.html


日蓮は,その部分を「心王」(しんのう)と述べて,「」に例え,
また,「」(みやこ)と述べて,一つの「都市」(あるいは,「」)に例えている。

「アラヤ識」(潜在意識のさらに奥(深層),このような部分がある
と仏教では教えてることは,非常に驚くべき点であると私は思う。

そして,マーフィー博士は,その部分を

 「内なる神」 (または,「I AM」「本来の自分」)

と表現した。

この「九識心王真如の都」については,またあとで,書いてみたいと思う。





道元の言葉 (強い願いはかなう)

大乗仏教の中に,「曹洞宗」(そうとうしゅう)という宗派がある。
ただひたすら座禅をする(それを「只管打坐(しかんたざ)」という)
という教えの宗派である。

日本におけるその宗派を開いた人は,「道元」という人である。
福井にある「永平寺」が,とても有名である。


私は,禅宗のことは,あまりよく分からない。
その教えも,あまり読んだことはない。

ただ,「道元」という名前だけは良く知っていて,
その人が,「正法眼蔵」(しょうぼうげんぞう)とか
正法眼蔵随聞記」という書物を書いた人だということは知っている。
(正確には,その弟子が記したようだが・・・。)

その書物の中に,「道元の言葉」として,次のように記されている。


「先(ま)づ(ただ)欣求(ごんぐ)の志(こころざ)しの切(せつ)なるべきなり
 譬(たと)へば重き宝をぬすまんと思ひ,
 強き敵をうたんと思ひ,
 高き色にあはんと思ふ心あらん人は,
 行住座臥(ぎょうじゅうざが)ことにふれおりに隨(したがっ)
 種種の事は かはり來(きた)るとも,其(そ)れに隨(したがい)て
 (すきま)を求め 心に懸くるなり
 この心あながちに切なるもの,とげずと云ふことなきなり。」

 正法眼蔵随聞記

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いくつか難しい言葉が出てくるので,説明しておく。

欣求」(ごんぐ)とは,喜び求めること,願い求めることである。

高き色」とは,ここでは,「高貴な美人」という意味である。
たぶん,ものすごい「きれいな女性」(美しい人)という意味なのだろう。

行住座臥」(ぎょうじゅうざが)とは,
「行」とは「歩行すること」,
「住」とは「ひとところにとどまって立つこと」,
「坐」とは「すわること」,
そして,「臥」とは「横にねること」である。
つまり,日常の動作のことだ。


それゆえ,この言葉の意味は,こうである。

「まず第一に,心から願い求めるという志が切なるものでなければならない
 
 たとえば,大切な宝を盗もうと思い,
 あるいは,強い敵を討とうと思い,
 あるいは,高貴な美人の女性を自分のものにしようと思う人は
 歩いていても,立っていても,座っていても,横になって寝ていても,
 ことにふれ,折あるごとに
,いろいろ事情は変わっても
 その時々に機会(チャンス)を求め,心にかけるものである
 
 その気持ちが並外れて切なる人の思いは
 遂げられない(願いがかなわない)ということはない。」



道元は,「思いが強ければ,その願いは必ずかなう
と教えてくれている。


しかも,この「たとえ」が実に面白いと思う。

「宝を盗もう」という考えは,はっきり言って「悪いもの」だろう。

また,「美しい女性を手に入れたい」と思うのは,
当時の出家した仏教の僧侶にとっては,あまり,いいことではなかったかもしれない。

しかし,ここでは,その願い(思い)が「良い」か「悪い」かは,まったく考慮してない

ただ,道元は,“常に”心に抱いている考えは,
しかも,その想いがものすごく強い場合には
その願いを遂げられないということはない,と教えてるのだ。


途中で「あきらめる」か,
「やっぱ,自分には無理だ」と思うか,

それとも,「やっぱり,どうしても欲しい」と思うか,
そして,それを得るまで,がんばり続けるのかは,
まったく,その人の自由である。


ただ,道元は,

 「この心あながちに切なるものとげずと云ふことなきなり

と述べている。

これは,鎌倉時代に悟りを開いた,一人の「高僧言葉である。

「華厳経」の言葉

大乗仏教の経典に「華厳経」(けごんきょう)という名の教典がある。
そこに,次のような興味深い言葉が書かれているので,ここに引用してみる。


は工(たくみ)なる画師(えし)(ごと)
 種種の五陰(ごおん)を画(えが)く
 一切世間の中に法として造らざること無し
 心の如く仏も亦(また)爾(しか)なり
 仏の如く衆生(しゅじょう)も然(しか)なり
 三界(さんがい)唯一心(ゆいいっしん)なり
 心の外(ほか)に別の法無し
 心(しん)仏(ぶつ)及(およ)び衆生(しゅじょう)是(こ)の三(みつ)差別無し」

 華厳経



この中に,「五陰」とかっていう難しい言葉(仏教の専門用語)が幾つか出てくるが,
それらの難しい言葉を無視して,ものすごく「シンプルに」この言葉を理解すると,
すべての物事をつくり出してるのは「」だ,ということである。

心は工なる画師の如く」とある。
(漢文は,「心如工画師」(しんにょくえし)と読む。)

心は,まるで,たくみな「画家」のように,
自分の思いのままに,どのようなものでも

 「思い描く

ことができ,そして,それを,実際に,
現実世界に表出させる(実現させる)力がある。

実際,どのような発明も,建物も,乗り物も,大企業も,
皆,「最初は,その人の心の中にしか」存在しなかった。
しかし,誰かが最初にその「夢」を持ち始め,それを「想像」し,計画し,設計し,
目標をたて,努力し続け,人々の協力を得て,ついに実現してしまった。
「月に行く」ことさえ,最初は,単なる「想像」(空想)にすぎなかった。

しかも,「華厳経」は,世界(三界)は

 「一心なり 心の外に別の無し

とまで言い切っている。
つまり,「それしかない」と言ってるわけだ。


これも,そこで言わんとしてることは,マーフィー理論で言うところの
心の法則」そのものではないだろうか。

昔から,たぶん,賢人(精神的指導者)たちは皆,
そのことに「気づいていた」のかもしれない。
「心」から,「一切のもの(物事)」が生じてくることを。

そして,仏教では,
色心不二」「依正不二」(えしょうふに)の原理に従って,
(内面)が変われば,
外面(外の体や環境,状況)さえも変わってしまう
のである。
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-17.html


聖書も,様々な象徴的表現でもって,
まったく同じことを,私たちに教えてくれてるのだと私は思う。

イエスは,こう言われた。

「あなたのご意志が天におけると同じように
 地上においてもなされますように」
 -マタイ6:9。


と。

」とは,神(内なる神)の住まう場所,
すなわち,私たちの「内面」()を指している。

そして,「」とは,その対義語,
すなわち,「外面」(私たちの「外」にあるもの)を指している。

つまり,これは,私たちの「に思い描いたとおりに
「外面」でも,それが実現しますように,との祈りである。


あなたの「夢」は何だろうか。
それが何であれ,その夢が実現するところを想像してみよう
そして,あなたの愛する人が,あなたに
おめでとうと言ってる場面を,想像してみよう

そう。
心は工なる画師の如く」(「心如工画師(しんにょくえし)」)である。

あなたは,自分の「,何を描くのだろうか。

思ったことを,どんどん書いてみる

ブログというのは,なんか「遠慮してると書けないもんだね。

どっちみち,このブログは,見る人は少ないし,
自分では,「いいことを書いた」と思っても,
コメントしてくれる人も少ないから,
これからは,自分で何でも思ったことを素直に書いてみようと思う。


以前,「依正不二」について述べたところのコメントで,
私は,次のように言った。

「それゆえ,日蓮は,自分の「」にある仏,
たとえば,阿弥陀仏のような西方極楽浄土に住む仏に頼り,
それが助けてくれるなどと,おとぎ話のようなことを教える浄土宗などを,
厳しく批判したんだと思います。
それによって,「正報」(主体である自分)が弱くなってしまうからです。

本当は,仏は,「私たちの胸の中にいる」と日蓮は教えます。
だから,本尊とする曼陀羅は,崇拝の対象というよりも,
自分の「心の中」を徹底的に見つめる「観心」という修行の一環で,
「南無妙法蓮華経」とは,「自分の中にいる仏への呼びかけ」だったのです。

それは,「自分の中の仏よ,目覚めよ! 私に力を与えたまえ
ということなのだろうと私は思います。
それらはすべて,「強い自分という主体を確立する」ための方法だったのです。

日蓮という人は,やっぱり,すごい人だと私は思います。」

http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-17.html




この説明は,私の中の日蓮の「本尊論」
(日蓮の書物を読んで,私がそう理解したもの)だったのですけども,
日蓮の書物に,次のように書かれているのを発見したので,
やはり,「私のこの理解の仕方は間違っていない」と思いました。
それを引用してみる。

彼(日蓮)は,こう述べていた。


我が己心妙法蓮華経を本尊とあがめ奉(たてまつ)りて
 我が己心中の仏性(ぶっしょう)
 南無妙法蓮華経とよびよ(呼)ばれて
 (あらわ)れ給(たも)う処(ところ)をとは云うなり,・・・
 口に妙法をよび奉(たてまつ)れば
 我が身の仏性もよ(呼)ばれて必ず顕れ給(たも)ふ」

 日蓮聖人著「法華初心成仏抄」 56歳の時の著述




これは,何度も言うようだけど,「奥が深い」と私は思います。

日蓮が言うところの「本尊」(妙法蓮華経)とは,
我が己心の中にある,と彼は言ってるわけです。

己心」(こしん)とは,読んで字のごとく,
自己の心」,「我が心」のことです。

または,「我が生命それ自体を意味する場合もある」と,
「仏教哲学大辞典(第三版)」は述べている。
(創価学会,2000年。1889ページ。)


これは,はっきり言って,他の宗教とは,教えが明確に異なるように私には思える。
というのは,「自分の「外」にあるものを本尊(仏)とするのではないからだ。

「自分の生命」,
「自分の中」,
「自分の心に」,本尊(仏)を見るのである。


ここで言ってることは,完璧に「心の法則」を述べている。
すなわち,「内なる神」である。

言葉や説明の仕方は異なれど,
言ってることは,まさに,

 「内なる神
 (God presence within you

に言及してる。

単に,マーフィー理論で言うところの「内なる神」(無限の力,生命の本源)を,
彼は,「妙法蓮華経」と表現してる,というだけの違いである。
(だから,「南無妙法蓮華経」とは,それに「南無」する,
 つまり,「自分の中にある『生命の本源』を私は信じる」という信仰告白である。
http://xbbs.knacks.biz/possible01#a845


日蓮は,まさに,すごい僧侶だったと私は思う。

彼は,「私たちの中に」本尊がある
と教えてくれているのだから。

「依正不二」(えしょうふに)。 -強い主体が環境をも変える-

「夫(それ)十方(じっぽう)は依報(えほう)なり,
 衆生(しゅじょう)は正報(しょうほう)なり
 譬(たと)へば依報(えほう)は影のごとし,正報(しょうほう)は体(たい)のごとし,
 身(み)なくば影なし 正報(しょうほう)なくば依報(えほう)なし,
 又(また)正報(しょほう)をば依報(えほう)をもつて此(こ)れをつくる」

(日蓮聖人著「瑞相御書」 54歳の時の著述)



仏教の言葉で「依正不二」(えしょうふに)という言葉がある。

依正」(えしょう)とは,「依報(えほう)」と「正報(しょうほう)」のことで,
依報(えほう)」とは,広辞苑第六版によれば,

 「〔仏〕過去の行為の結果として受ける,環境世界。」

と説明されている。

そして,「正報(しょうほう)」とは,

 「〔仏〕過去の行為の結果,報いとして受ける,われわれの心身。」

と説明されている。

そして,「不二(ふに)」とは,

 「〔仏〕異ならないこと。差別のないこと。
  現象的に対立する二つのことが根底的には一体であること
  大乗仏教において主張される。」

と書かれている。


だから,「依正不二」(えしょうふに)とは,簡単に言えば,

 「環境世界」と「われわれの心身」とは「一体」である
 (「客体」と私たち(主体)は,別のものではなく,実は一体である)

という意味である。


これは,実に,興味深い教えだと私は思う。

私はかつて,「ポジティブに考えると,ポジティブな結果が返ってくる」と
なぜ主張したり,信じたりできるのか,その「理由」をうまく説明できなかった。

「ポジティブに考える」というのは,
あくまでも,私たちの「脳の中だけでの活動である。
しかし,その「脳の中」の考えに過ぎないものが,
なぜか,周囲の「環境」を変えてしまうほどの力を持っているのある。

だから,もし,私たちが,自分の周り(環境,客体)を変えたいと思うならば,
まず,強い自分(確固たる主体)を確立すればいいのである


そうすると,「依正不二(えしょうふに)」の原理(法則)に基づいて,
やがて,「環境」(周り)が変わってくるのである。


ある人たちは,この教え(依正不二)をもとに,
「地震」や「天変地異」の原因が,人々(大衆)の心にある,とさえ言う。

たとえば,日蓮は,そう考えた。
前述の書物の中で,彼は続けて,こう述べていた。

人の悦(よろこ)び多多(たた)なれば
 天に吉瑞(きつずい)をあらはし 地に帝釈(たいしゃく)の動(うごき)あり,
 人の悪心(あくしん)盛(さかん)なれば
 天に凶変(きょうへん),地に凶夭(きょうよう)出来(しゅったい)す」

(日蓮聖人著「瑞相御書」 54歳の時の著述)



ここで述べてる事柄は,もう完全に「信仰の領域」に入る事柄であり,
厳密な「科学」,たとえば地震学者は,それは「地球の活動」であるとして
人間の思考との関連性”を否定するかもしれないが,
私たちを生み出し,現に,今でも私たち人間を養ってくれている「母なる大地」が,
その地の上に住む私たち「人間の思いに反応する」としても,別に,
何ら不思議ではない,と私個人は感じる。

(そもそも,この観点で考えないと,聖書の言う「終わりの日」には,
「地震」などの天災が以前よりも多くなるという説明も,
地上に住む「邪悪な人々」との“関連性”が全くなく,意味不明となる。)


それに,ネガティブな人たちが集まり,「負のエネルギー」が強くなれば,
そこの「環境世界」が,その影響を受ける
とも考えられる。

そう考えると,この「依正不二」(えしょうふに)という教えは,
「すごい教えだな」とも思う。

仏教の教えというのは,三千年の昔から,
このような「心の法則」に気づいた人たちが
私たちに気づかせてくれてたものなのかもしれない。





日蓮と「心の法則」

さて,一連の「仏教」シリーズの記事は,
これで一応,終わりにしてみたいと思います。

今日は,日蓮と「心の法則」について書いてみたいと思います。
私は,日蓮は,「心の法則を知っていた」と思います。

彼の述べた事柄を,ここに「引用」してみます。
特に私の解説は付けませんので,「じかに」読んで,そこから何かを感じ取ってください。
(きちんと読めるように,漢字には「ひらがな」を付けておきました。)


「失(とが)なき者をば天もあやまつ事なし,況(いわん)や善人におひてをや。
 されば妙楽大師のたまはく「必ず心の固きに仮(よ)りて神の守り則(すなわ)ち強し」等云云,
 人の心かたければ神のまほ(守)り必ずつよしとこそ候(そうら)へ」

(日蓮聖人著「乙御前御消息」 54歳の時の著述)



「「必ず心の固きに仮(よ)りて神の守り即(すなわ)ち強し」等とは是(これ)なり,
 汝等(なんじら)努努(ゆめゆめ)疑うこと勿(なか)れ
 決定(けつじょう)して疑い有(あ)る可(べ)からざる者なり」

(日蓮聖人著「真言諸宗違目」 51歳の時の著述)



「止観(しかん)の第八に云(いわ)く・・・
 「城の主(あるじ)剛(たけ)ければ 守る者も強し
  城の主(あるじ)恇(おず)れば 守る者 忙(おそ)る,
  心は是(こ)れ身(み)の主(あるじ)なり・・・
  心固(かた)ければ則(すな)ち強し
  身(み)の神(かみ)尚(なお)爾(しか)なり 況(いわん)や道場の神をや」
 弘決(ぐけつ)の第八に云く
 「常に人を護(まも)ると雖(いえど)も 必ず心の固きに仮(よ)りて神の守り則(すなわ)ち強し」」

(日蓮聖人著「道場神守護事」 55歳の時の著述)



「摩訶止観(まかしかん)第八に云(いわ)く 弘決(ぐけつ)第八に云く
 「必ず心の固きに仮(よ)つて神の守り則(すなわ)ち強し」云云(うんぬん),
 神の護(まも)ると申すも 人の心つよきによるとみえて候(そうろう)

(日蓮聖人著「四条金吾殿御返事」 57歳の時の著述)



「夫(そ)れ 浄土と云(い)うも地獄と云(い)うも外(ほか)には候(そうら)はず
 ただ我等(われら)がむね(胸)の間(あいだ)にあり
 これをさとるを仏(ほとけ)といふ,
 これにまよ(迷)ふを凡夫(ぼんぷ)と云(い)う」

(日蓮聖人著「上野殿後家尼御返事」 53歳の時の著述)







温かい人

今日は,お約束通り,日蓮の「温かい手紙」を紹介してみます。

時は,1281年(弘安4年)の冬,
病気を患っていた日蓮のもとに
ある女性信者から,「酒」が届けられた。

その女性は,その前年の9月に,
愛する息子を,わずか16歳という若さで亡くしていた

親にとっては,「子供が自分よりも先に死ぬ
ということほど悲しいものはない。
(だから,聖書も,「復活」の話は,大抵,「親より子供のほうが先に死ぬ」という状況である。)

親は,子供の「死亡届」を出すものではない。」
と,子供を病気で亡くした人は言う。

今から紹介するのは,そのような悲しい境遇にある人が,
貧しい中から送ってくれたことに対する「お礼の手紙」である。

「やせやまい(痩せ病)と申し,とし(齢)と申し,
としどし(年年)に身ゆわ(弱)く,・・・この十余日(じゅうよにち)はすでに食も,
ほとを(殆)と とど(留)まりて候(そうろう)上,
ゆき(雪)はかさなり,かん(寒)はせめ候(そうろう)。
身のひ(冷)ゆる事 石のごとし,胸のつめたき事 氷のごとし。

しかるに,このさけ(酒) はたた(温)かに,さしわかして,・・・
一度のみて候(そうら)へば,火を胸に,たくがごとし。・・・

此(こ)の御志(おんこころざし)は,いかんがせんと
うれしくをも(思)ひ候(そうろう)ところに,
両眼より,ひとつのなんだ(涙)を,うかべて候(そうろう)
。」



(日蓮聖人著 「上野殿母御前御返事」 1281年12月8日著述)



12月,外を見れば,「雪」が降っている。
鎌倉時代,身を暖めるためのストーブなどは,なかっただろう。
そのため,病気で弱ってしまった彼の体は,
まるで「氷のように」完全に冷え切っていた。

そこに,送ってくれた「酒」を飲んだら,少し体が温まってきて,
なんとありがたいことだろうと思っていたら,
思わず,両目から「」がこぼれ落ちてきた
と言っているのである。

私は,この部分を読むと,「涙」が出てくる。


続いて,彼は,その女性の
去年亡くなった息子について言及し,こう述べる。

「去年の九月五日 こ(故)五郎殿のかくれにしは,
いかになりけると,胸うちさわぎて,ゆび(指)をを(折)りかず(数)へ候(そうら)へば,
すでに二ヶ年 十六月(つき) 四百余日にすぎ候(そうろう)が,
それ(貴女)には母なれば御をとづれ(音信)や候(そうや)らむ,いかにきかせ給はぬやらむ

ふりし雪も又(また)ふれり,ち(散)りし花も又(また)さ(咲)きて候(そうら)いき
無常(死)ばかり,またも,かへ(返)りきこへ候(そうら)はざりけるか,あらうらめし,あらうらめし」

(日蓮聖人著 「上野殿母御前御返事」 1281年12月8日著述)



雪は「また」降り,春になれば花も「また」咲く。
なのに,亡くなった五郎殿だけは,「また」帰ってくるということはない。
母であるあなたは,彼の声を,「もう一度聴きたい」と,
どれほど思っていることだろうと,思いやってあげている。

ここに,彼(日蓮)の「やさしさ」を私は感じる。

続けて,彼は,こう述べる。

「これ(日蓮)も,よも(恐らく)ひさしくも,このよ(世)に候はじ,
一定(いちじょう,「きっと」の意)五郎殿にいきあいぬと,をぼ(覚)へ候(そうろう)。
母(あなた)よりさきに,けさん(見参)し候(そうら)わば
母のなげき申しつた(伝)へ候(そうら)はん


(日蓮聖人著 「上野殿母御前御返事」 1281年12月8日著述)



日蓮は,「もうすぐ自分も死ぬ」ことを知っていたのかもしれない。
だから,たぶん,あなたよりも先に,私は五郎殿に会うだろうから,
そしたら,母の嘆きを息子さんに伝えますね,と言った。

そして,この手紙を書いてから約10ヶ月後,日蓮はこの世を去っていった。


さて,今日は,日蓮の手紙のほんの「一例」を紹介しただけだが,
日蓮の信者宛の手紙(特に,女性宛のもの)は,
大抵,こんな感じで,みんな「温かい」。

彼は,人間的に非常に「魅力的」である。


人が「何を信じるのか」は重要だとは思うが,
それ以上に,「その人物が魅力的かどうか」は,もっと重要だと私は思う。

今日の日本において,日蓮を信じている人が多くいるが,
それは,日蓮宗の教義だけでなく,彼のその「人格」が魅力的だからだろう。


そもそも,今から「700年も前」の日本で,
信者宛に書いた,こんな「個人的な手紙」が,
今でも,ちゃんと残ってるってのが,すごいと思う。

それは,その手紙を受け取った信者が,
それを「大切に保管していた」からである。





日蓮という人

私が,まだ現役JWだった頃,そして,野外奉仕に熱心だった頃,
野外には,「創価学会」の人がいて,当時はまだ彼らは
日蓮正宗からは破門されてない時代で,
それはそれは,ものすごい「折伏」をしてきたものである。

(注: 「折伏」(しゃくぶく)とは,簡単に言うと,
 いわば「強制的に」相手を説得して改宗させる行為のことである。)

私は,そんな創価学会の人に何度も会い,
彼らのその強い信仰を見るにつけ,いつしか,
彼らのその強い信仰の「理由」(根拠)を知りたくなった。
そして,現役JWとしてはめずらしく,創価学会の教えを「調べた」のである。

たぶん,多くのJWは,そんなことはしないし,調べたりはしない
だから,私は,いわば,「変なJW」だったのである。


私が調べたのは,もちろん,創価学会の入門書である。
他に,本屋さんで買ったのは,二代目の戸田会長全集の一つである。
他に,日蓮正宗教学の教えが書いてある難しい専門書がいくつか。
そして,日蓮教学の辞書がいくつか。
そして,何よりも,日蓮聖人が書いた書物。(「日蓮大聖人御書全集」と言う。)

私が主に読んだのは,「入門書」と,「日蓮大聖人御書全集」。
みんなカラフルに線が引いてあるので,たぶん,そこらへんの
日蓮正宗の教学を学んでない,なんちゃって創価学会員よりも勉強してる


もちろん,御書を読んでも,「難しい言葉」がたくさん書いてあって,
仏教の「専門用語」などの意味は,ほとんど分からない。
ただ,まったくの門外漢の人間(クリスチャン)が,日蓮の書いた
ほとんどの書物に目を通してることに意味があると思う



いずれにしても,私には,少なくとも,「ほとんどの箇所に目を通した」という自負がある。
だから,多少なりとも,「まったく調べようともしない」人間よりは,
他の宗教に対して意見を言える立場にあると思ってる


これは,いわば,創価学会員(仏教徒)が,キリスト教の信仰に対して
意見を述べるために,「聖書全巻を読んでから」意見を述べるようなものである。
こんなことは,普通は,あり得ない。
そして,同じように,JWにも,あり得ないだろう。

みんな,どいつもこいつも,自分で直接調べたわけでもないのに
他人から聞きかじった知識で,偉そうに意見を述べやがる。


さて,こうして自分で直接,日蓮の書物をじかに読んでみて,
私が感じたのは,今から700年前の鎌倉時代の日本に,
こんなにも「論理的に」物事を考える人がいたのか
と,びっくりしたものである。

彼の書いた文章の印象を一言で表現するとすれば,それは,「論理性」である。
だから,言うことが,いちいち「説得力がある」のである。
つまり,「これこれこうだから,こうである」という説明が,非常に明確なのだ。

創価学会が,他宗教の人間を折伏する際の,あの自信は,
日蓮のこの「論理性」にある。
(私の言ってる意味が分からなければ,日蓮の書物を,直接読んでみればいい。)

もちろん,今のように「仏教史学」などが,まだ発達してない時代のことで,
法華経が,釈尊(仏陀)の死後,数百年も後に書かれたもので,
「聖書の影響を受けている」ことなど,まったく知られていない時代のものであるが・・・。

しかし,それでも,その当時(鎌倉時代)の知識の範囲内で,
あれだけの「論理性」を備えてることが,すごいことだと私は思うのである。


そして,彼(日蓮)の書物には,もう一つの特徴がある。
それは,信者あてに書かれた手紙が,ものすごく「温かい」ことである。
何度も読むと,涙が出てくる

つまり,人間的に魅力的」なのである。

とかく,彼の強い信仰,他宗排撃,折伏などに目が行きがちであるが,
彼のその信者宛の温かい手紙を読むと,彼に対する印象が変わるかもしれない。

エホバの証人の人は,自分で調べないから,
こういうことは,「知らない」のである。

いい機会なので,次は,日蓮のその
温かい手紙」を紹介してみる。





「法華経」と「聖書」

いわゆる「大乗仏教」の頂点の教典として,
法華経」(妙法蓮華経)という教典がある。

日蓮宗の宗祖である日蓮聖人(しょうにん)は,
この教典こそ,「仏の真実の教え」を教えてるものとして,
それに「帰命する」という意味の「南無」を付けて,
「南無妙法蓮華経」(なむ・みょうほうれんげきょう)と唱えた。
(だから,文字どおりには,「私は法華経を信じます」と唱えてる。)


さて,この教典,うちのサイトでは論じていないが,
西暦一世紀にインドに宣教に行った「キリスト教の影響」を受けている。
http://godpresencewithin.web.fc2.com/pages/zatsugaku/isseiki.html

もちろん,この教典だけではない。
そもそも,「大乗仏教」自体が,そうなのである。

だから,その大乗仏教の教えに,「キリスト教との共通点」がたくさんある。

それゆえ,「創価学会」と「エホバの証人」が,まったく別ものであるはずなのに,
そこに「似てる部分がある」のは,ある意味,不思議ではないのである。


ところで,法華経の第三章にある「譬喩品」(ひゆほん)に,
昨日,興味深い言葉があるのを見つけたので,ここに少し,引用してみる。
(だから,ブログに書いてるのだが)

「今(いま) 此(こ)の三界(さんがい)は 皆(みな) 是(こ)れ我が有(う)なり
 其(そ)の中の衆生(しゅじょう)は 悉(ことごと)く是(こ)れ吾(わ)が子なり」

(「真訓両読・妙法蓮華経 並 開結」 創価学会,昭和36年。233ページ。)



「三界」(さんがい)というのは,「欲界」「色界(しきかい)」「無色界」のことで,
簡単に表現すると,「世界」(世)のことである。

「衆生」(しゅじょう)というのは,簡単に言うと,「人々」のことである。

要するに,この部分は,

 「この世界に住む人々は皆,ことごとく私の子供だ

と言ってることになる。
非常に温かい言葉だと感じる。


さて,私が今日,話したいのは,実は,この部分ではない。
皆 是(こ)れ我が有(う)なり」という部分である。

原語のサンスクリット語(梵語)で,どうなってるのか私には分からないが,
漢語では,こうなってる。

「今此三界(こんしさんがい) 皆是我有(かいぜがう)
 其中衆生(ごちゅうしゅじょう) 悉是吾子(しつぜごし)」



さて,私が何を言いたいのか,もう勘のいい人は分かると思う。

 「我有」(がう)

って書いてあるんですよ。

要するに,聖書の「出エジプト記3:14」にある言葉です。
http://bbbible.com/bbb/bbbex032.html..htm#ex3.13-21

文語訳では,「我有り」(われあり)と訳され,
英語では,「I AM」と訳されている,あの言葉です。

そうすると,この法華経の言葉「今此三界 皆是我有」は,
この世界は皆,「I AM」のものである」とも読めないだろうか。


この言葉に続く文章もおもしろい。

「而(しか)も今 此(こ)の処(ところ)は 諸(もろもろ)の患難多し
 唯(ただ)我(わ)れ一人(いちにん)のみ 能(よ)く救護(くご)を為(な)す

(「真訓両読・妙法蓮華経 並 開結」 創価学会,昭和36年。233,234ページ。)



この法華経の言葉も,「心の法則」の観点から読むと
実に,素晴らしいことを教えてると私は思う。

すなわち,「I AM」(「」,われ)のみが救いを施すのである。

言い換えれば,「あなたがあなたの(究極の)救い主」なのであり,
それ以外のところ(あなたの「外部」)に「救い」を求めても,
そこに,本当の助けがあるわけではないのである。





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