元エホバの証人一世、possibleの“独り言”的ブログ

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自分で復讐をしてはならない

お知らせ
 この記事は、1月26日に再編集し、
 「ギリシャ語本文からの解説
 「画像」を少し加えました。
 より分かりやすく、また、心に訴えるためにです。)


とある掲示板に投稿したのですが、そこの管理人の都合で
勝手に」削除されてしまったため、
そのとき投稿した内容のものを思い出しながら、
今一度、書いてみます。

それは、「今、自分で復讐をしている
(過去に自分を理不尽に扱った長老たちに対して)
と述べる現役のエホバの証人の方
に対して、私が述べたものです。

では、今、思い出しながら、書いてみます。

(時間がなくて、すぐには書けませんでした。
 もう数日経ってます。
 勝手に投稿を削除するのは、
 ある意味「失礼」ではないでしょうか。
 わざわざ「時間」と「労力」をかけて
 投稿してくれた人たちに対してです。)


-----------------------------------

そろそろ、ご自分を「解放」してあげたらいかがでしょうか。
復讐に燃えてる人生など、「むなしい」ものです。
(そう思いませんか?)

聖書には、

 「復しゅうはわたしのもの
  わたしが返報する

と書かれています。(ローマ12:19)

ここで「わたしが」と訳されてる部分には、
ギリシャ語では、わざわざ人称代名詞が用いられ、
その部分が「強調」されてることを示しています。

神ご自身が、「わ・た・し・が・」絶対するから
強調して述べてる事柄を、
あなたが代わってする必要はないのです。


また、ローマ12章21節には、

 「悪に征服されてはなりません

とも書かれています。

これは、

 「あなたは、自分自身が悪に征服されるのを許してはなりません

の意です。
(英文、"Do not let yourself be conquered by the evil.")

つまり、自分で復讐をすることは、
あなたのほうが負け」という意味です。

これ(復讐)は、会社の新人研修
(その人はそれを担当していた)において、

 「あなたは絶対負けてはならない。
  もし会社を辞めるのなら、勝ってから辞めなさい」

と述べてる人には、ふさわしくない行為です。

----------------------------


以上です。

思い出しながらですので、正確な引用文ではありません。
また、この記事で、分かりやすくするために、
丸カッコ内の言葉は、ここでの私の挿入句です。

なお、「ローマ12章21節」に関しては、ギリシャ語本文から
ここで、もう少し解説してみます。

以下の画像は、私の聖書(参照資料付き)です。
そこには、私の文字で、こう書かれています。

 (現命)「やめなさい

ローマ12章21節(my Bible)

その部分のギリシャ語の文法は、いわゆる
現在時制の禁止命令」という形で書かれています。

どういうことかというと、「あなたは今までずっと
悪に征服されてきたかもしれない。
しかし、もう、そういうことはやめなさい」という意味です。


 この文法に関する詳しい説明は、
 以下のアドレスの記事の「脚注19」を参照。↓
 http://godpresencewithin.web.fc2.com/pages/hitorigoto/magdalene.html#脚注19

単に「するな」ではなく、「やめなさい」だから、
すでに、そういうことを行ってる人に
その行為を「ストップせよ」と教えているわけです。

下の画像は、私の持ってる「王国行間逐語訳」より。
その行間の英語を見れば、その問題の部分のギリシャ語が
受動態」で書かれていることも分かります。

つまり、

 征服「されている」(すなわち、他人に。しかも、悪に)

ということです。
これほど「くやしい」こともないでしょう。
http://godpresencewithin.web.fc2.com/pages/greek/imperative.html

KITRomans12:21

だから、もう、そういうことは「やめなよ」と聖書は言うわけです。

このように、「自分で復讐をしてはならない」ということには、
そうする「理由」が、ちゃんとあることを
聖書は論理的に説明しているわけです。


ところで、「心の法則」の観点からすれば、
復讐心は、まず「自分自身を」傷つけます。

怒ったり、どなったりして、
「疲れた」経験をお持ちではありませんか?
そうです。怒ることは、案外、エネルギーを使うのです。

また、そのことで、よけい「イライラ」したり、
「自己嫌悪」や、相手に悪いことをした
という気持ちを持ってしまったことはありませんか?

そのような『ネガティブな感情』を持ち続けていると、
やがて、「精神」だけでなく、
「体」にも影響が出てきてしまいます。
そうして、やがて「病気」という形で表れてきてしまうでしょう。

仮に、「病気」にまではならなくとも、
「肩が痛い」「関節が痛い」
「なんとなくダルい」「疲れがとれない」
などの症状として表れてきてしまうかもしれません。

そうしたら、元も子もありません。
相手を傷つけるつもりが、実際には

 「自分自身を一番傷つける

ことになってしまうからです。

それゆえ、難しいとしても、相手を「許す」
(もし、「許す」こと自体が難しいなら、
 「もう考えないようにする」
 「思い出さないようにする」だけでもいい)
というのは、実際には

 「自分自身のため

なのです。


しかし、自分に対して理不尽な扱いをした人を
どうしても許せない」と感じるなら、
どうしたらいいでしょう?

そういう方は、

 「神が[必ず]復讐してくださる

という信仰を持ちましょう。

「心の法則」によれば、悪は自分自身の力で
やがて「崩壊」(自ら崩壊)してしまうでしょう


それは、相手が「病気になって死ぬ」「事故で死ぬ」
あるいは、なんらかの「不幸な目に遭う」
(たとえば、「仕事を失う」「家庭不和」など)
の結果となって表れてきます。

あなたは何もしなくてもよいのです。
あなたが、自分で復讐をする必要などないのです。
それをするのは、あなたの役目ではありません。

ですから、もう、あなたをいじめた
「くだらない人」のことなどは忘れて、
自分自身のしあわせ」を願ってください。

あなたには、しあわせになる権利があるのです。
その「しあわせになる権利」を誰にも奪い取られてはなりません。


宙船(そらふね)」 TOKIO




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他の宗教(異教)の影響下にある「聖書」

エホバの証人にとっては,
聖書」というのは,霊感を受けた「神の言葉」であり,
他の諸宗教の「聖典」などとは,明確に,一線を画している。

だから,「聖書を使って」他の宗教を攻撃するし,
異教」に起源があるとして,様々な「祝日」や「祝い」を祝わない。


しかし,いったん,カルト的な思考を抜け出て,
純粋に「聖書」そのものを見る時,
そこには,「他の民族の宗教や文化から
多大な影響を受けてるものがあることが見えてくる。


1
例えば,あなたは,「ハンムラビ法典」って聞いたことがあるだろうか。
そこには,「目には目を,歯には歯を」と書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%83%93%E6%B3%95%E5%85%B8

聖書を読んだことがある人なら,一目瞭然だが,
これは,「聖書の言葉」である。
しかし,その言葉が,なぜ「ハンムラビ法典」に書いてあるのか。

「ハンムラビ法典」が,「聖書」の言葉を拝借したのか,
それとも,「聖書ハンムラビ法典の言葉を拝借したのか

答えは,明らかであるとは思うが,
あえてそれに言及はせず,あなたの判断にまかせる。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/8769/kagaku/babiron.htm


2
また,聖書に起源がある教えとして,
預言者」,「救済者(メシア)の思想」,
終末論」,「天国」と「地獄」,「最後の審判
といったものがあるかもしれない。

しかし,これも,実は,ペルシャの宗教「ゾロアスター教の影響である
と言われている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E6%95%99#.E4.BB.96.E5.AE.97.E6.95.99.E3.81.B8.E3.81.AE.E5.BD.B1.E9.9F.BF


また,ゾロアスター教は,「」を尊ぶため,
別名,「拝火教」(はいかきょう)とも呼ばれるが,
聖書の中でも,「」は,動物の犠牲にしろ,
イスラエルを導く「火の柱」にしろ,
ソドムとゴモラの滅びにしろ,
バアル神の信者を滅ぼすにしろ,重要な役割を果たしている。

(ちなみに,関係ない話だが,その神「アフラ・マズダー」から,
 日本の自動車メーカー「マツダ」という名前が付けられている。
 
 また,大乗仏教においては,「阿修羅」(あしゅら)も,
 たぶん,その神のことである。
 また,弥勒の信仰も,その影響を受けているのかもしれない。
 また,特に,「真言宗」で護摩を焚くことも,拝火教の影響だろう。)


3
また,聖書では,「」のことをヘブライ語で「エール」と言うが,
これは,「ウガリット神話に出てくる神々の一つなのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E3.82.A6.E3.82.AC.E3.83.AA.E3.83.83.E3.83.88.E7.A5.9E.E8.A9.B1.E3.81.AE.E7.A5.9E.E3.80.85


4
他にも,たとえば,古代ヒンズー教バラモン教)の創造神は
ブラフマー」(Brahmaa)と言うが,それが,聖書の創世記に出てくる
アブラハム」(Abraham)と,名前が非常によく似てること。

興味深いことに,ブラフマーの「妻」の名は,
サラスバティー」という。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%BC

そして,ご存じ,アブラハムの「妻」の名は,
サラ」と言った。

これなども,どちらかがどちらかをパクった」のか,
あるいは,何らかの「共通の源」があったか,
あるいは,「影響」を受けたものであろう。


5
また,インドの聖典に「バガヴァッド・ギーター」という書物があるが,
それに登場する神の化身クリシュナ」と,
神の御子「キリスト」の類似点も,
決して,偶然ではないのかもしれない。
http://blog.sitarama.jp/?eid=450698

そこに書いてあることは,「聖書」の記述と非常に似ている
しかも,どちらも「神の言葉」と言われている。
これなども,どちらかがどちらかに影響を及ぼしたとも考えられる。
ちなみに,「新約聖書」よりも,「バガヴァッド・ギーターのほうが古い


以上,考慮した事柄は,ほんの「一部分」である。

他にも,「ギルガメシュ叙事詩」からの,「洪水」や「箱船」の話の「パクリ」だとか,
http://takasi.at.webry.info/200801/article_22.html
http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/jesus/old-testament3.htm
旧約聖書の中に,古代インドの言葉である「サンスクリット語」が混じってるとか,
そういう話をすれば,きっと,きりがないだろう。
あなたは,もしかしたら,そういう類の話を,「もっと知ってる」かもしれない。
(知ってたら,ぜひ,教えてください。)


こういう話は,「聖書こそ 宗教の正邪をはかるための基準
などと考えてる人にとっては,有り難くないかもしれない

しかし,実際には,「聖書」とて,
他の宗教や文化から,多大な影響を受けているのである。

そういうことを知るだけでも,ある人にとっては,
マインド・コントロールを解く」ための助けとなるかもしれない。


私は,聖書の「価値」を否定してるのではない。
「聖書」はもちろん,文化的には,ものすごい「価値がある」書物である。
その書物が「人類に与えた影響」も,はんぱない。
そこには,ユダヤ人の並外れた「知恵」が含まれており,感動する言葉も多々ある。
それは,私たちが,これからも保護してゆくべき,人類の貴重な知的財産」の一つである。

しかし,「聖書は絶対」(キリスト教は他の宗教よりも優れてる)
などという幻想からは,離れるべきである。

そう私は思う。


「マタイ 5章28節」の本当の意味

さて,この間は,大乗仏教の「理趣経」(りしゅきょう)
という教典に書かれている,次のような言葉を引用した。

淨句 是菩薩位(けん せいせいく しほさい)
欲心を持って異性を見ることも,清浄なる菩薩の境地である。」


そして,私は,この教典が,
正直,「素晴らしい」と思ったことを述べた。
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-55.html


しかし,私は,現在でも「クリスチャン」と思ってる“端(はし)くれ”。

それで,必然的に,聖書の「マタイ5章28節」の聖句にも,
言及しておく必要性を感じるので,
一応,ここで,その聖句を引用し,
その正しい意味」について,述べておきたいと思う。


その言葉(マタイ5:28)は,有名な「山上の垂訓」と呼ばれる話の一部で,
キリスト教の創始者であるイエス・キリストが語ったと言われる言葉である。

「正しい解釈」をするために,文脈の27節から引用する。

「『あなたは姦淫を犯してはならない』
 と言われたのをあなた方は聞きました。
 しかし,わたしはあなた方に言いますが,
 女を見つづけてこれに情欲を抱く者はみな
 すでに心の中でその[]と姦淫を犯したのです。」

 -マタイ5:27,28。[新世界訳]



さて,この聖句に関しては,ものみの塔協会の出版物の中では,
いろいろ,もっともらしい説明がなされているが,
はたして,世の「男性」(健全な性欲を持つ男性のうち
いったい,どれほどの人が,この言葉を守れるだろうか

私は,はなはだ疑問に思う。

そもそも,この言葉を述べたイエス自身,
自分は,そういうことを一切したことがない」と言えるのだろうか。

その場合,自分は「経験」として,それがどういうものかを「知らない」のであるから,
「女を見つづけてこれに情欲を抱く」ということの意味自体を理解できず,
そういうことはするなと,人に言うこともできまい。

自分で「分かってる」から,人にも,そう言えるのだ。
それはつまり,イエスも「経験済み」という意味だ。


それと,この「新世界訳」のような訳し方は,実は「誤訳」である。
だから,「新共同訳」では,この聖句は,こうなっている。

「しかし,わたしは言っておく。
 みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも
 既に心の中でその女を犯したのである。」

 -マタイ5:28。[新共同訳

塚本訳」では,「情欲をもって人妻を見る者は皆」と訳されている。)
http://bbbible.com/bbb/bbbmt05a.html#mt5.27-32


なんで,こういう訳し方をするのかというと,
文脈が「姦淫」(「淫行」ではない)について述べてるからである。

実は,この点(「誤訳」に関して)は,早くも明治時代には,内村鑑三(無教会主義)が指摘していた。
大正元年発行の内村鑑三氏の『誤訳正解』において,この聖句は,

 「凡そ色欲を遂げんとして(おんな)を見るものは
  既に心のうちに姦淫したるなり」


と訳すのが正解だと,彼は述べている。

どういうことかというと,まず,「
つまり,「既婚女性」をそういう目で見る,という点であること。
そして,文語訳にあるように,
「すべて色情を懐きて」じゃない,という点である。
「色欲を遂げんとして」である。

「色欲を遂げんとして」と,「色情を懐きて」は,明らかに,違う行為だろう。
遂げんとして」という場合,そこには,邪悪さを感じる。
それは,明らかに,自分の「欲望を満足」させるためだったら,
相手の「しあわせ」も「福祉」も関係ない,というような邪悪さを感じる。


この聖句に関しては,ギリシャ語辞典の編集者,織田 昭 氏も,
その著「マタイによる福音」の中で,こう述べている。

「ここは口語訳の,「女を見る者はという感じとは意味が異なるでしょう。
 これに早くから気づいて,この新共同訳にある訳し方
 を提唱したのは内村鑑三です

 しかし内村氏も「それでは,みだらな目で婦人を見るのは許されるのか」という,
 先程の目をつぶって転ぶ側からの批判を浴びたのではないかと思います。
 確かに「他人の」という言葉は原文にありませんし,
 定冠詞もついておりませんから「女を」だろうと言う理屈も成り立ちますけども,
 モーセの十戒とのつながりから,そして ου μοιχευσεισ
 --姦淫するな--という具体的な罪の性質から言っても,
 a woman というより,the wife に対する冒とくを問題にしているのです。」

 (織田 昭 著「マタイによる福音」 松本工房,1993年。145ページ。)




これでお分かりになるように,その真実の意味
実際にはものみの塔協会が教えてるような意味ではない

正しい聖書理解は必要以上に自分を責めないためには
必要な知識だと私は思う。

たぶん,マタイ5章28節に関する「正しい知識(理解)」を身につけると,
そこでイエスが言わんとしてることは,
あなたを非難してるわけではないことが分かるであろう。


私たちは,どこかの宗教の指導者が,その聖句を間違って解釈して
私たちに押しつけてきた「高い基準」に添えないことで,
自分を(極度に)責める必要はない

美しい女性を見て,「美しい」とか「欲しい」とか「イイ」
と感じる時のあなたの思いは,たぶん,
あなたが「健全な」男子である証拠である。


もちろん,女の子を目の前にして,
あまり,上から下まで舐めるようにして見る男も「気持ち悪い」から,
程度がある」とは思うが,それは,このブログで今言うことではない。


P.S.
上記の説明は,聖書を「文字どおりに」解釈する人のために述べている。
私が普段述べている「心の法則の観点からの解説ではない

心の法則の観点では,「姦淫また違う意味になる
マーフィー博士は,こう述べている。
「聖書でいう姦淫とは,邪神崇拝(間違った神を崇拝すること)です。
 あなたの心の中に悪魔がすみついている限り,
 誤った考えが心の中に存在することになり,姦淫を犯すことに等しくなるのです。」

このマーフィー博士の言葉も,「心の法則」を知らない人にはさらに説明が必要だが,
要するに,「内なる神」“以外のもの”(自分の「外」にあるもの)
に信頼をよせることを姦淫と言うのです。



人に「頼られる」ということ

あまり「ネガティブ」なことは,努めて話さないようにしてるので,
あまり話したことはないが,今日は,今でもよく覚えてることを
皆さんに話してみようと思います。


かつて私は,「完全に自尊心を失ってしまった」時期がある。
1990年代の初めの頃のことである。

私は,いつも,「死にたい」と思っていた。
医者に診断してもらったことはないが,
たぶん,「うつ病」というやつだ。


この時期,私は,エホバの証人の集会から返ると,
いつも泣いていた」ように思う。
週3回の集会の帰り道の信号はいつも,「にじんでいた

もし,神がそう望まれるのなら,この「くだらない私の命」を,
いつでも取り去っていただきたい,と思っていた。
そして,泣きながら,そう祈った。
(しかし,神は,私の命を取り去れることはなかった。)


さて,この時期,うちの家の物置の「雨どい」に
すずめが,巣を作っていた。

ある時,この巣に,すずめの子が足をからませ,
何度もバタバタしても,なかなか抜け出せなかったらしく,
片足が完全に折れて,ダメになっていた

私は,はしごに登って,
そのすずめの足に,からまってしまったものをほどき,
そのすずめの子を助けてあげた。

そして,介抱してあげようと思って,家の中に連れて行き,
居間のテーブルの上にティッシュを何枚か敷いて,
その上に載せてあげた。

しかし,片足が完全に折れてダメになっていたので
そのまま置くと,「バランスを崩して」倒れてしまうのであった。

だから,私が,その子が倒れてしまう側に
手を添えて」,支えてあげた。

だから,私が,手をのけると,
そのすずめは,バランスを崩して,倒れてしまうのであった



その時のことであった。
今でも,よく覚えているのは。

私が,手を少し,ずらした時だった。

そしたら,そのすずめが,
私の手に近づいてきた」のだ。
もう一つの,大丈夫なほうの足を一生懸命に使って。


私は,「偶然」かと思ったので,
もう一度,同じことをしてみた。

そしたら,そのすずめは,もう一度,
私の手に近づいてきて,
私の手に寄りかかったのだ!


この時の気持ちは,何年経った今でも忘れない。
(今でも,思い出すと,涙が出てくる。)

私は,こう思った。

 「今,このすずめは,私の手に寄りかかっている
  私がこの手をずらしたら,この子は倒れてしまう。
  そう。私は今,頼られてる。」



そう思ったんです。

私は,たぶん,その時,はじめて
誰かから,頼られるという気持ちを味わったのだと思う。

そのすずめは,安心したように目を閉じて
私の手に「寄りかかってくれていた

私は,そのすずめの頭をやさしくなでて,
誰よりも,「いとおしく感じた


残念ながら,そのすずめは,介抱のかいもなく,
次の日には亡くなってしまった。

私は,泣いた。
すごく泣いた。

私には,そのすずめが,
私の手に,安心して「寄りかかってくれた」このすずめが,
わたしの命よりも大切に思えた

神は,なぜ,私の命を取り去って,代わりに
このすずめを助けてくださらないのだろうと,泣きながら,本気で思った。

私は,主イエスの言葉を思い出していた。

「すずめ五羽はわずかな価の硬貨二つで売っているではありませんか。
 それでも,その一羽といえども神のみ前で忘れられることはありません。・・・
 恐れることはありません。
 あなた方はたくさんのすずめより価値があるのです。」
 -ルカ 12:6,7。[新世界訳]


神は,その一羽も,決して「忘れない」のだという。

私も,たぶん一生,「忘れることはない」だろう。
私の手に「寄りかかってくれた」すずめのことを。


「わたしの救いの神」の意味


 「いちじくの木が花をつけず,ぶどうの木に実がならなくても,
  オリーブの木が不作に終わり,段丘が全く食物を産み出さなくても,
  羊の群れが全くおりから絶え,囲いの中に牛の群れがいなくなっても,
  それでもわたしは,ただエホバにあって歓喜し,
  わたしの救いの神にあって喜びにあふれます。」
  
  - ハバクク 3:17,18。[新世界訳]

http://www.watchtower.org/j/bible/hab/chapter_003.htm#bk18




さて,今日は,私が現役エホバの証人だった頃,
個人的に「こだわっていた」ことについて述べてみたいと思う。

それは,聖書の中の

 「わたしの救いの神

という表現について,である。


さて,ここの「どこに」こだわってたの?
って,あなたは思うかもしれない。

実は,わたしの

 「救いの神」

じゃないという点に,なんです。


 (∂。∂?) はあ?


私の言いたいことが,まだよく分かんないという人のために,
「英語」で説明してみますね。

これ,日本語だと分かりづらいんですが,
英語では,この「わたしの救いの神」は,

 "the God of my salvation"

と書きます。


つまり,どういうことかというと,

 「わたしの救い」の神

なんです。

分かりますかね?


つまり,

 わたしの 「救いの神

と言ってるんじゃなくて,

 「わたしの救い」 の神

だって,聖書は言ってるんです。


これ,ちょっとした違いだけど,「ものすごい違い」だと思うんですよね。私は。

神は「救いの神」だから,すごいって言ってるんじゃなくて,

 「私の救い

の神だから,すごいねって言ってるんですね。聖書は。


これ,案外,知らない人,多いんじゃないのかな?

あなたの可能性

「あなた方は,もうすでに[十分]満ちています。
 もうすでに,あなた方は富んでいるのです。
 私たちを抜きにして,あなた方は王となっているのです。
 いや,実際,あなた方が[本当に]王となっていたらよかったのに。
 そうすれば,結果的に,私・た・ち・も・,あなた方と共に王となっていただろうに。」
 
 -コリント第一 4:8。[possible訳・試訳]



この聖句は,本当に,素晴らしい聖句だと私は思う。

この聖句を読むだけで,勇気がわいてくるような気がする。
人を「励ます」,素晴らしい言葉が,ちりばめられている。


今現在,私たちが,どれほどの実際の所有物(財産)を持っているかにかかわりなく
使徒パウロは,あなた方は,もうすでに十分持っていて,「お金持ち」(新共同訳)だと言う。

そして,あなた方は「王だ」と言ってくれている。


しかし,実際には,どうだっただろう。

彼らは,実際には「王ではなかった」。
だから,「本当に」王となってくれてたらよかったのに,とパウロは述べている。

ここには,パウロの「期待」が,ものすごく込められてるように思う。


仮に,もし,あなたの愛する人が,
これほどの「期待を込めて」あなたを見ているとしたら,どうだろう。

その人は,「あなたの可能性を信じ」,
将来,どんな人になってくれるんだろう」と思ってるのである。

そして,「今のあなた」が,どれほど貧しくても,また,だめな人間でも,
今のあなたの姿ではなく
将来のあなたの姿」(あなたの可能性)に目を留め,期待をしてくれてるとしたら。

そしたら,あなたは,その人のために,がんばるのではないだろうか。


かつて,日本において,仏教の総合大学とも言える「天台宗」
を開いた伝教大師 最澄は,次のように述べた。

 「国宝とは何物ぞ。
  宝とは道心なり。
  道心有るの人を名づけて国宝となす。」

 (「天台法華宗年分学生式」)



彼は,いわば,日本における仏教の「総合大学」をつくり,
若者たちの「育成」に力を注いだ人である。

彼は,まだ「修行」している修行僧(学生たち)こそ,
国家の宝(人材)であると述べた。


どこに書いてあった資料だったか,まったく思い出せないが,
ある田舎のお坊さんが,総本山に行った。
彼は,その総本山にいる偉いお坊さんたちには,いっさい頭を下げなかった。

しかし,まだ「修行」をしてる立場の若者を見るや,
彼には手を合わせ,深々とお辞儀をしたのであった。

それを見た偉い人が,「どういうことだ!」と怒った。

それに対して,その人は,こう答えたと言う。

「すでに偉くなってる人は,もうそこまでの立場の人だと分かる。
 しかし,この若者には無限の可能性がある。
 これから,この若者が,どれだけ偉くなるのかは誰にも分からない
 だから,私は,この若者の可能性に手を合わせているのだ。」

うろ覚えなので,正確な引用ではないが,
たしか,こういうようなことを言ったと記憶している。


神は,たぶん,「同じように」あなたを見てくださるだろう。

あなたの「現在の姿や立場」ではなく,
あなたの将来なりうる姿」(可能性)を見て,あなたを尊敬してくれるのである。


あなたは,どんな人になるのだろう

神がアブラハムに言われた言葉(レク・レカー)

聖書の「創世記12章」には,当時,まだ「アブラム」と呼ばれていた男に,
神が語った力強い言葉が,次のように記されている。

「それからエホバはアブラムにこう言われた。
 「あなたの国を出,あなたの親族と父の家とを離れて,わたしが示す国へ行きなさい
  そうすればわたしは,あなたから大いなる国民を作り,あなたを祝福し,
  あなたの名を大いなるものにする。あなたは祝福となりなさい。」
  -創世記 12:1,2。[新世界訳]



ご存じのとおり,この言葉は,元々はヘブライ語で書かれている。

神がアブラハムに語った言葉の冒頭は,ヘブライ語では

 「レク・レカー」(לֶךְ־לְךָ
 ユダヤ人のネイティブ・スピーカーの発音は,「レフ・レハー」)


と書かれている。

元々のヘブライ語は「子音字」“のみ”で書かれたので,
ヘブライ語本文では,同じ子音字(Lkh-Lkh)が二度繰り返され,非常に印象深い言葉である。


さて,このブログのリンクでも示している「聖書直訳」は,その「レク・レカー」という言葉を

 「あなたは歩け にあなた

と訳している。
http://bible.co.jp/bible/ot/gn/gn12.htm

あなたは歩け」と訳されている「レク」は,
「歩く」という意味の「ハーラク」(もしくは,「ヤーラク」)という動詞の(二人称)単数の命令形である。
http://www.sacrednamebible.com/kjvstrongs/STRHEB32.htm#S3212
http://www.sacrednamebible.com/kjvstrongs/STRHEB19.htm#S1980

このヘブライ語には,「歩く」という意味の他に「行く」「出る」「出発する」「離れる」などの意味がある。
だから,「あなたは行け」「あなたは,出(いで)よ」「あなたは出発せよ」「あなたは離れよ」などと訳すこともできる。


次に,「にあなた」と訳されている「レカー」は,
「~に」という意味の前置詞「レ」に,二人称単数の接尾辞が付いたものである。
だから,直訳は,「あなたに向かって]」である。

そうすると,この部分は,

 「出なさい,あなたに向かって。あなたの生まれ故郷,あなたの父の家から・・・」


と訳せる。

多くの人が,この言葉の「重要性」に気づき,コメントしている。
例えば,次のブログの記事をご覧いただきたい。
http://plaza.rakuten.co.jp/biblestudy/diary/200812120000/



さて,その「レク・レカー」(レフ・レハー)という言葉は,
旅立ちの第一歩は,まず

 「今までの自分から出る

ということを教えてくれる。

今までの「小さな自分」から抜け出し,
神が与えてくれた「大きな夢に向かって」行動を開始するのである。

だから,アブラハムは,「あなたから大いなる国民を作る」という,神の「壮大な夢」を信じた。
それは,実に,「常識外れな夢」であったが,アブラハムはそれを信じたのである。

「自分には,そんなことは無理」と言う自分が自分の中にはいるかもしれない。

しかし,もう,そういう「小さな自分」,
自分の中の小さな殻にとじこめておこうとする自分,
自分の可能性を過小評価する自分,
そういう自分とは,「おさらば」するのである。


さらに,この「レク・レカー」(レフ・レハー)という言葉をよ~く見ると,
非常に不思議なことが書かれていることに気づく。

そう,

 「自分に向かって

と言ってるのである。

汝自身に」「自分自身に」とは,何を意味するのだろうか。

これは,「心の法則」を教えてくれてるのではないだろうか。

それは,「自分の中に
「自分の内側に
「自分の内面に」あるもの
に目を向けさせてくれる。

実際,そこには,「内なる神」(God presence within you)がいるのではないだろうか。

そして,まだ現在の自分では気づいていない「金の鉱脈」が,
あなたの内面には,眠っているかもしれないのである。
まだ開発されていない,大きな「可能性」が,そ・こ・に・隠れているのである。


今や私たちは,「自分の中の大きな可能性」に目を留め,
それに気づき,引き出してあげなければならない。

そして,小さな自分,否定的な自分,ネガティブな自分,
また,自分の可能性を否定し,「お前には絶対無理だよ」「お前にできるわけがないよ
と親切に言ってくれる親戚,周りの者,同僚,友人たち,
そうした人たちを後に残し,神が与えてくれた大きな夢に向かって歩み始めなければならない。


そう,神は,アブラハムと同様,私たちにも,こう言ってくれてるのである。

 לֶךְ־לְךָ
 「レク・レカー」(レフ・レハー


と。

言葉のイメージ

長い間,私は熱心なエホバの証人であった。

長い間,組織と交わり,エホバの証人として生活してると,
ある言葉には,ある「特定のイメージ」を持つようになる。

たとえば,聖書の中に「悔い改め」という言葉が出てくる。
悔い改めなさい」(悔い改めよ)と言われたら,
あなたは,その言葉に,何か「積極的な意味」を感じるだろうか?

いや,むしろ,「否定的なイメージ」を持つだろうと思う。
何か「悪いこと」をして,それを悔い改めるというイメージである。


しかし,原文のギリシャ語では,「メタノエオー」(これは動詞で,名詞は「メタノイア」)
といって,それは,「心を変える」「考えを変える」という意味なのである。

この差は,あまりにも大きいと私は感じる。


仮に,聖書の中で,「悔い改めなさい」と書いてあるところを,
すべて「心を変えなさい」(考えを変えなさい)と変えるとしたら,
それだけで,「積極的なメッセージ」になる。

すなわち,今までのあなたは,神や自分に対して「ネガティブ」に考えていたかもしれない。
しかし,これからは,そういうネガティブな考えを捨てて,
考え方を変えて,ポジティブになりなさい
と言ってくれてるようにも私には思える。

「翻訳が大事だ」というのは,こういう部分なのである。


さらに,話は違うが,聖書の中には「」という言葉が出てくる。
たとえば,新世界訳の箴言29章18節には,

 「がなければ,民は放逸に振る舞う。」

と書いてある。

これは,はっきり言って,言ってる意味がよく分からない
預言」(将来の予言)が必要だと言ってるようにも聞こえる。

しかし,欽定訳では,この聖句はこうなってる。

 「ビジョンがなければ,人は滅びる。」


」を「ビジョン」に変えるだけで,
意味がものすごい「積極的」になる。

要するに,将来の「ビジョン」(明確な夢や目標や明るい希望)がなければ,
人はダメになってしまう
,と聖書は教えてるのだ。


やはり,「翻訳は大事だ」と私は思う。

そして,聖書は,「心の法則」を教えてる書物だということを
よく知ってる(分かってる)人が,翻訳する必要がある,と私は感じる。

「ネガティブな言葉」を吐くことの恐ろしさ

今日は,「ネガティブな言葉を吐く」ことの恐ろしさ
について述べてみたいと思う。

聖書は,「心の法則」(人の心の働き)を,
象徴」「比喩」,また,「たとえ」や「物語」(寓話や,ファンタジー)
などをふんだんに使って表現している。
(だから,必ずしも,それが「歴史上の実話」だというわけではない。
私が,聖書を「文字どおりに」とらえるのは間違ってると何度も言うのは,こういう理由である。)

聖書は,「比喩を理解する人でないと,本当の意味では理解できない。
だから,俳句,短歌,ポエム(詩)などをたしなむ人のほうが,聖書は理解しやすいはずと思う。

そのことを,よくわきまえて下さった上で述べてみる。


聖書には,ある時,こんなことがあったと記している。

「すると,集会のすべての者は声を上げ,民は夜通し声を張り上げて泣き続けた。
 そして,イスラエルの子らは皆モーセとアロンに対してつぶやき始め,
 集会のすべての者が彼らに向かってこう言いだした。
 「わたしたちはエジプトの地で死んでいればよかった
  でなければ,この荒野で死んでいればよかったのだ。」 」
 -民数記 14:1,2。[新世界訳]



これは,まあ,心にある「不平」「不満」を吐露したわけだが,
これに対して,エホバ(「I AM」,すなわち,心の法則では「内なる神」)の反応は,
おもしろいものがある。

こう書かれている。

「彼らに述べよ,『「わたしが生けるごとく」と,エホバはお告げになる,
 「あなた方がわたしの耳に語ったそのとおりのことを
  わたしがあなた方に対して行なわないとすれば!

 -民数記 14:28。[新世界訳]



「あなた方がわたしに耳に語ったそのとおりのこと」というのは,
要するに,彼らの,「死んでいればよかった」という言葉のことである。

そんなにも「死にたい」と言うのなら,
じゃあ,そのとおりにしてあげましょう
とエホバは述べてるわけだ。
これは,考えてみれば,実に恐ろしいことだと私は思う。

そして,文脈から分かるとおり,神は,
ポジティブな」ヨシュアとカレブだけを救うことを決定された。

そう。ポジティブな人だけが,「約束の地」に入れたのである。
ヨシュアとカレブが「約束の地」に行けた理由は,たった,これだけだ


イエスも,こう言われたことがある。

「わたしはあなたがたに,こう言いましょう。
 人はその口にするあらゆるむだなことばについて,
 さばきの日には言い開きをしなければなりません。
 あなたが正しいとされるのは,あなたのことばによるのであり,
 罪に定められるのも,あなたのことばによるのです
。」
 -マタイ 12:36,37。[新改訳]




神は,「私たちの語る言葉」に敏感に反応する。

だから,ネガティブな言葉を吐けば,
ネガティブな反応」が返ってくることを覚悟しなければならない。

反対に,常にポジティブな言葉を言うように心がけていれば,
ポジティブな反応」が返ってくると期待できる。

神(内なる神)が,常にその言葉を聞いているからである。

神の見え方

さて,聖書の中には,「神」に関して,
次のような興味深い説明が見られる。

「[自らを]清く保つ者には,あなたはご自身を清い者として示し,
 曲がった者には,ご自身をねじけた者として示されます。」
 -詩編 18:26。[新世界訳]



これは,考えてみれば,おもしろい説明である。
「曲がった者」には,神は,「ねじけた者として」示されるのだという。

ということは,である。
もし,神が「ねじけた者」に見えるならば,
私たちの現在の心がそういう状態にある
(気をつけた方がいい),ということだ。

聖書が,その人の心の状態を映し出す「」と言われるゆえんは,ここにある。


しかし,これは,「心の法則」の観点でとらえないと,よく分からないと思う。
というのは,エホバの証人のように,聖書を「文字どおりに」受け取る人なら,
エホバは元々「清い者」(究極に「清い方」)なのだから,
誰が見ても神は「清い者」に映るはずである。

しかし,実際には違う。

聖書は,その人の状態によって,「神の見え方がまったく違う」と教えている。

だから,もし,私たちの心の状態が「ネガティブ」なら,
神のことも,「ネガティブ」にとらえる。

それは,なにも,「神」のことだけではないと思う。
「ネガティブな人」にとっては,
目に見えるもの“すべて”が,ことごとく「ネガティブ」だ。

すべては,その人の「」(心の状態)が決める。

聖書には,次のような聖句がある。

「苦しむ者の日はどの日もみな悪い。
 しかし,心の善良な者には絶えず宴が[ある]。」
 -箴言15:15。[新世界訳]

「悩んでいる者の日々はことごとくつらく,
 心の楽しい人は常に宴会をもつ。」
 -箴言15:15。[口語訳]

「悩む者には毎日が不吉の日であるが,
 心に楽しみのある人には毎日が宴会である。」
 -箴言15:15。[新改訳]



同じ一日」なのに,人によって,こんなにも反応が違うのである。
同じ物事」を見て,こんなにも,ものの見方や感じ方が違うのである。

「同じ一日」(同じ24時間)を過ごすのなら,私たちは,いつも笑ってる
「心の楽しい」(ポジティブ)ほうの人になりたい。

そうすれば,毎日が「宴会」だ。(笑)

 ヽ(  ´  ∇  `  )ノ ワーイ


さて,次は,「ネガティブな言葉を決して吐いてはいけない
ということについて,述べてみる。
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