元エホバの証人一世、possibleの“独り言”的ブログ

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ものみの塔協会は,2013年も「投資セミナー」に参加か?

ものみの塔協会が,「ヘッジファンド」に
莫大なお金を投資していることは,
信者の間では知られていない。

掲示板のほうでは,2011年に,私はこう述べていた。

今年は,「2011年9月13日と14日」(つまり,昨日と今日)に,
その「投資セミナー」が行なわれた。

ご自身で,判断していただいたい
そこに参加した,「投資家」(企業)は,以下のとおりである。

 「WATCH TOWER SOCIETY

http://www.hedgefundintelligence.com/Product/13793/Forthcoming-Events/InvestHedge-Forum-2011.html?ElementId=9679



http://bb2.atbb.jp/strongwings/viewtopic.php?t=1361



さて,今年(2013年)は,9月24日と25日だそうですよ。
明日と明後日ですね。(このブログの記事は前日の23日に書きました。)
http://www.hedgefundintelligence.com/Product/16991/Forthcoming-Events-Details/InvestHedge-Forum-2013.html


もし,今年も,「ものみの塔協会」の名前が書いてあったら,
もうエホバの証人は,やめたらいかがでしょうか。

今年も,名前が,あがるかどうか
今から「楽しみ」にしてたほうがいいですよ。

もし,名前が書いてあったら,「やっぱり」で「確信」に変わり,
もう言い訳とかしないほうがよろしいと思います。

(あるいは,ものみの塔は,「ヘッジファンド」をやめるでしょうか。
 あるいは,今年は,幼児性的虐待の裁判で
 「資産を凍結」されて,お金を動かせないとか。)


もし,「ものみの塔」(WATCH TOWER SOCIETY)と書いてあったら,
もう,ご自分の「お金」は,ものみの塔に寄付するのはやめ
「ご自分の投資」に使ってくださいませ。



P.S.
この追伸は,25日に記述しています。

コメント欄のほうで,2012年のリストから
WATCH TOWER」の文字が消えてることに言及しました。

私が思うに,たぶん,「消させた」のでしょう。
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「三位一体」の教理と,「内在する神」(聖霊)

今日は,キリスト教会の中心的教理である「三位一体論」と,
「心の法則」との関連(共通点)について述べてみたいと思う。

三位一体」と言っても,私は専門家(神学者)ではないので,
自分なりに理解してる事柄が言えるのみであるけれども,
今日は,私が今,理解できてる範囲で述べてみたいと思う。


さて,私が「心の法則」(マーフィー理論)を説明する際,
どうしても,「内なる神」という表現を頻繁に使う。

しかし,これが,エホバの証人の出版物を研究し,その集会に定期的に出席し,
こうして,「エホバの証人の教理」に完全に染まってると,まったく理解できない。
なぜなら,エホバの証人にとっては,
神(エホバ)とは,「外なる神」のことだからである。
簡単に言えば,神とは,「自分の中にいる神」のことではない。


話はずれるが,昔,エホバの証人は,神とは,「プレアデス星団
(その中の特に「アルシオン」という名の星)に住んでいると考えていた。
http://www.quotes-watchtower.co.uk/god_s_throne_-_pleiades.html

この星団は,「牡牛座」の一部で,日本語名は「すばる」とも言う。

ものみの塔協会二代目会長の,J・F・ラザフォードが書いた「和解」という本には,
聖書の歴代第二6:21と,ヨブ記38:31を引用しつつ,次のように書かれている。

「此(こ)の昴宿(ぼうしゅく)七星の一つが最高の天に位(くらい)して
 其処(そこ)が神エホバの御座所(ござしょ)だと称されている。・・・(略)
 
 其(そ)の重要性に就(つい)ては他の巨大なる諸星(しょせい)も
 此(こ)の昴宿(ぼうしゅく)には到底及ばず,
 何故(なにゆえ)なれば昴宿(ぼうしゅく)
 神エホバの永遠の宝座
(みくら)であるからである。」

(J・F・ラザフォード著/明石順三訳「和解」 万国聖書研究会/灯台社,昭和5年。15ページ。)



このように,初期の「聖書研究者」にとっては,
エホバ神とは,宇宙内の,ある特定の「星団」(プレアデス星団,すばる)の,
さらに,その中の特定の「星」(アルシオン)に住む方だったのである。
(この点で言えば,ある意味,「神」とは,
 まるで,ウルトラマンのような「宇宙人」である。)

その星(約「400光年」のかなた)から,神は,
はるばるこの地球上に息子(イエス)を送り,
また,はるばる,その星の御座から,地球の各地に聖霊(神の活動力)を送って,
いろいろなことを成し遂げていると考えていた。


現在,エホバの証人は,神は「ある特定の星団の星」に住んでいる方
とは考えていないが,しかし,神は「天」に座し,
そこにある「御座」から(神は動かずに),み使いに指示したり,
聖霊(活動力,エネルギー)を送っている(特に,組織に)と考えている。

だから,エホバの証人にとっての「神」とは,
あくまでも,私たちとは別の場所(天)に住む,
しかも,なんとなく,「遠い存在」(私たちから物理的に離れた存在)である。
そして,その「自分から遠く離れた存在」に向かって,彼らは日々,祈るのである。
だから,たとえ「神が深く気遣ってくださる」としても,
それは,せいぜい,「遠くから見守っている」という感じである。

この観点からすれば(そのような思想に常に接していれば),
心の法則で言うところの「内なる神」の意味を,全く理解できないのは当然である。
だから,簡単に言えば,「エホバの証人の教理」と「心の法則」とは相容れない


しかし,こと「キリスト教会」に限って言えば,
「心の法則」をまったく理解できないわけではない(共通点がある)ことを,今日は説明したいのである。
そこで,今日のタイトルである「三位一体」の教理に,多少,言及する。

実は,キリスト教会においても,エホバの証人と同じように,
「父なる神」というのは,「天」にいて,
私たちとは明らかに,別個の場所に住んでいる。

しかし,同時に,その「父なる神」は,三位一体の教理によれば,
「子なる神」(イエス)であり,「聖霊なる神」なのである。

聖霊なる神」という言い方は,エホバの証人にとっては,分かりづらいかもしれないが,
簡単に言えば,私たちの中に「内在してくれる神」のことなのである。
その「内在する神」「信じる者の内に宿っていてくださる神」のことを,
三位一体の教理では,「聖霊」と呼ぶのである。

この点で言えば,心の法則で言うところの「内なる神」を,
三位一体論者は,まったく理解できないわけではないと思う。
というのは,三位一体の教理でも,「内在する神」(聖霊)を信じているからである。

そのことを,聖書は,非常に分かりやすく,
しかも,非常に美しく,次のように述べる。

「あなた方は,自分たちが神の神殿であり,
 神の霊が自分たちの中に宿っていることを知らないのですか。」
 -コリント第一 3:16。[新世界訳]

「イエスを死人の中からよみがえらせた方の
 霊があなた方のうちに宿っているのなら
 キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたその方は,
 あなた方のうちに住むご自分の霊によって,
 あなた方の死ぬべき体をも生かしてくださるのです。」
 -ローマ 8:11。[新世界訳]



残念ながら,コリント第一3章16節の聖句にあるとおりなら,
エホバの証人は,自分たちの中に「神の霊が宿っているなどとは知らない
しかし,三位一体論者は,知っている。
なぜなら,「聖霊」とは,私たちの中に「内在する神」だと彼らは知っているからである。

おまけに,エホバの証人は,次の聖句の意味も,本当にはよく分からない。

「[あなた方の]信仰により,あなた方の心の中に
 愛をもってキリストを住まわせてくださるようにするためです。」

 -エフェソス 3:17。[新世界訳]



聖書によれば,キリストも,私たちの中に「住んで」くださるというのだという。

しかし,エホバの証人によれば,キリストは現在,「天」にいて,
特に,1914年以来,王として統治し始めているのだという。
エホバの証人にとっては,このように,イエスとは「遠い存在」(物理的に)である。
その,遠く天にいる方が,どうやって,その人の中に「住む」というのだろう。
たぶん,エホバの証人の教理では,理解できまい。

しかし,三位一体論者にとっては,これは自明のことである。
なぜなら,「聖霊」という形で神は常に「内在」しており,
しかも,三位一体の教理によれば,聖霊=イエスである。

さらに,ここでは,あまり考慮してないが,
三位一体論では,神とは,「遍在」する方なのである。
つまり,簡単にいえば,「どこにでも存在できる方」なのである。

しかし,エホバの証人の教理に,「遍在」という考えはない。
神とは,あくまでも「天」にいて,私たちから「遠く離れて」いる。


このような考えなので,エホバの証人は,聖書の意味を理解できず,
「新世界訳」の翻訳において,「重大なミス」を何度も,しかも,徹底的に犯す。
たとえば,このような聖句を。

「その日にあなた方は,わたしが父と結びついており
 あなた方がわたしと結びついており
 わたしがあなた方と結びついていることを知るでしょう。」

 -ヨハネ 14:20。[新世界訳]


ここで何度も「結びついて」と訳されているギリシャ語は,
エン」という言葉(前置詞)で,その字義的な意味は「in」(~の中(内)に)である。
だから,「新共同訳」では,その同じ聖句が次のように訳されている。

「かの日には,わたしが父の内におり
 あなたがたがわたしの内におり
 わたしもあなたがたの内にいることが,あなたがたに分かる。」

 -ヨハネ14:20。[新共同訳]



まったく,「字義どおり」の,素晴らしいとしか言いようのない翻訳である。

それに対して,新世界訳では,「字義訳」と謳っていながら,
実際には,翻訳者には,その原文の意味がまったく理解できず,
「結びついて」というまったく別の訳語に変えて,
自分たちの教理に合わせるように変更している。

こうして,ヨハネの書いた書物のキーワードとも言うべき大切な言葉を
「まったく違う意味に」取り替えて訳し,
こうして,聖書の「元々の意味」が失われるのである。

この「結びついて」と訳されてる言葉が,
実際には「内にいる」という意味であることが理解できると,
前に引用したローマ8章11節の聖句も,きちんとその「文脈」(10節)から理解できるであろう。

「しかし,キリストがあなた方と結びついているなら
 (「キリストがあなたがたの内におられるならば」新共同訳),
 体は罪のゆえに確かに死んでいるとしても,
 霊は義のゆえに命となっているのです。
 そして,イエスを死人の中からよみがえらせた方の
 霊があなた方のうちに宿っているのなら
 キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたその方は,
 あなた方のうちに住むご自分の霊によって,
 あなた方の死ぬべき体をも生かしてくださるのです。」

 -ローマ 8:10,11。[新世界訳]




エホバの証人は,「三位一体」という教理を
意味不明な(不可解な)教理として退けるが,
実際には,三位一体の否定こそ,神を私たちから「遠い存在」とし,
神は,「私たちの中にさえ住む」(神ご自身が,信じる者の内に住んでいてくださる
という聖書の教理を分かりにくくさせているのである。

エホバの証人にとっては,神は「身近な存在」と思おうとしても,
その方は,実際には,「私たちから(物理的に)遠く離れた場所」にいるだけである。
せいぜい,その「遠くの場所から神は眺め,見守り,
聖霊(活動力)を送り,み使いを送り,組織を通して助けるだけだ。


しかし,聖書は,神は,私たちの「かたわら」(共に)にいて慰めてくださる
と教えるだけではなく,さらに,友が「寄り添う」よりももっと近く
つまり,「私たちの中に」入り,「そこに住む」と教える。

それは,たぶん,あなたが思ってる以上に身近」であろう。

聖書が,言うとおりである。

「人々が神を求めるためであり,それは,彼らが
 [神]を模索してほんとうに見いだすならばのことですが,
 実際のところ[]
 わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません
 わたしたちは[神]によって命を持ち,動き,存在しているからであり,
 あなた方の詩人のある者たちも,
 『そはわれらはまたその子孫なり』と言っているとおりです。」
 
 -使徒 17:27,28。[新世界訳]




では,この記事の最後に,日本のキリスト教会で,
おそらく最も有名な書物の一つから,引用してみたい。
これは,昔,福音派の「神学校」で用いられていた教科書の一つである。

「神とわたしたちの関係を表わすには,
 神がわたしたちの近くにおられるという表現も
 まだ十分に親近性を描き出しているとは言えない

 神はわたしたちの内におられる
 わたしたちの魂こそ,神が最もいつくしむ住家(じゅうか)なのである。
 神はわたしのそばに立っていてくださると考えるのは
 星の輝くあの夜空のかなたに
 神の宮を移してしまうのと同じくらいの間違いである。」

 (ヘンリー・シーセン著「組織神学」 聖書図書刊行会,1961年。204ページ。
  神の「遍在性」を示すために,そこに引用されている,「ファーバー」という人の言葉より抜粋。)




12月25日(クリスマス)の起源

さて,今日は「クリスマス」ということで,
エホバの証人の創始者である,
チャールズ・テイズ・ラッセルの言葉を紹介したいと思う。


もうすでにご存じのとおり,ラッセルの時代,
聖書研究者たち(当時,エホバの証人は,そう呼ばれていた)は,
クリスマスを祝っていた

じゃあ,「12月25日」が「イエスの誕生日」であると思って
祝っていたのかというと,そうではない。


では,どう考えていたのか。

今日は,ラッセルが書いた「聖書研究第2集
時は近づけり」(非公式の日本語版)から,引用してみたい。

ラッセルは,その本の中で,こう述べている。

「このように,イエスの誕生は,一般に考えられている年代
 AD1年より1年3ヶ月前であったということが,重ねて証明される。
 
 なぜなら,イエスの伝道は,彼が33歳半の時,
 AD33年4月3日から33年半を逆にさかのぼれば,たやすく見つけられる。
 
 AD33年4月から32年3ヶ月さかのぼると,AD1年1月3日だから,
 1年3ヶ月さらにさかのぼると,BC2年10月3日となって,
 それが主がベツレヘムで生まれた日付である

 
 ユダヤ人によって使われた太陰暦と現在一般に使われている太陽暦は
 数日の違いがあるので,それがBC2年の9月27日ではなく,
 10月1日が正しいかどうかについては確かめることができない。
 
 その日付から9ヶ月さかのぼると,BC3年のクリスマスの頃になるが,
 その時,主はこの世が造られる前から彼が父のみそばで持っていた栄光
 を捨てて,人間の性質に変わられたのである。
 
 おそらく,これが12月25日クリスマスの日として祝う起源であろうと思われる。
 

 キリスト教史に関する一部の筆者は,クリスマスの日は
 ガブリエルが処女マリアに受胎告知をした日として祝ったのが始まりだ
 とさえ主張している。(ルカ 1:26)

 主の誕生のころ,羊飼いたちが野宿しながら羊の群れの番をしていた
 という聖書の申し立てと,その日付が冬の真中であったということは,
 確かに一致しているとは言えない。」

(チャールズ・テイズ・ラッセル著「時は近づけり」。
 「千年期黎明」第2巻,「聖書研究」第2集。1888年。62ページ。)

英語の原文:
http://www.strictlygenteel.co.uk/timeisathand/study2.html




なお,昔,この点について私が述べた時,
ある女性の方が(女性のほうが,必然的に男性より「妊娠」に詳しい),
それだと,実際の「受胎」の日付が,おかしいと申しておりました。

私は,ラッセルは,日本で言うところの「十月十日」(とつきとおか
について述べてるのであり,それほど厳密に述べたわけではないと思う
と答えたと思う。


ラッセルの考えによれば,イエスが実際に生まれたのは「10月の初め」であり,
その日から,赤ちゃんがマリアのおなかの中にいた期間をさかのぼると
ちょうど,「クリスマス(12月25日)頃になる」(その頃,受胎したのだろう)と推測している。

そういう意味で,彼らにとっては,
クリスマスを祝うことにはそれなりの根拠があったのである


しかし,その後のエホバの証人たちは,その「創始者の説明を無視し
いつの頃からか,クリスマスには異教の起源がある
と言いだすようになる。

そして,その頃から,
もし,クリスチャンが,「イエスの誕生日」を祝うべきではないのだったら,
なおさら,「個人の誕生日は祝うべきではないと考えるようになり,
こうして,だんだんと「カルト色」を強めていくこととなる。


しかし,考えてみれば,これは,「話のすり替え」である。

元々,ラッセルの時代の時だって,聖書研究者たちは,
「イエスの誕生日」を祝っていたのではない。

そうではなく,「イエスの誕生」を祝っていたのだ。

繰り返すが,「誕生日」を祝っていたのではなく,
誕生」を祝っていたのだ。
この差(違い)は,大きいと私は思う。



15歳の時,私が欲しかった教え(エホバの証人の教えに足りないもの)

私は,高校一年(15歳)の時に,級友のいわゆる「非公式」の証言によって
エホバの証人の教えに接し,集会に行くようになった。

もうずいぶん前の話だけれども,それが最初のキッカケだった。


私は,学校の休み時間に,その級友と,軽い「聖書研究」をし始めた。
受け取った本は,あの「青い本」だった。
(ギネスブックに載ってる,あの本である。)

私が一番知りたかったのは,
どうすれば神に祈りを聞いていただけますか」という章だった。


何十年も前の「その頃の自分」を思い出してみると,
そして,今,振り返って,「その時の自分に一番必要だったのは

 自分に自信を与えてくれる教え

だったように思う。

すなわち,「自分自身を信じることを徹底的に教えてくれる教えである。

また,自分自身をかけがえのない存在」であると教えてくれる教え,
そして,その自分を愛すること」を教えてくれる教えだ。


私は思うのだけれども,
エホバの証人の教えの中に一番足りないのは,この種の教えである。

かえって,当時の私がエホバの証人から教えてもらったことといえば,
簡単に言えば,次の三つである。

(1) 来るはずのない楽園の幻想(幻覚。これは「現実」から目をそらす)
(2) 宣べ伝える業
(3) そして,高校を卒業したら,正式な職業につくな!(「正社員」になるな)

である。


いずれも,

(1) 自分に自信を持つこと
(2) 自分自身を徹底的に信じること
(3) 自分をかけがえのない存在だと思うこと
(4) 自分を愛すること

そういう教えとは関係がない。


振り返ってみれば,私が15歳の時,
エホバの証人の宗教に最初に求めたものは,この種の教えだった。
しかし,残念ながら,その宗教の中に,この種の教えはない。

そのため,私は,ず~っと自分に自信のないまま青春時代を過ごし,
自分を愛することもできないまま,大人になってしまったように思う。

私は,なんか,「いつも泣いていた」ように思う。
私の青春時代(20代,30代)は,「」で終わった。
楽しかった思い出は,あまりない。
いつも,「死にたいって思っていたように思う。


今,振り返れば,あの時,ファンダメンタルのエホバの証人の教えではなく,
マーフィー博士(ニューソート)の教えに出会えていれば・・・。

そして,そういうことを教えてくれる大人がいれば・・・

 「君は自分を信じなければいけないよ
  自分の心の声に耳を傾けてごらん


って教えてくれる人である。

子供の頃,そして,青春の頃,
ずっと悩んでいる私に「本当に教えて欲しかったこと」は,
そういう教えだったように思う。

 自分を信じること
 自分の内なる声に耳を傾けること
 内なる神を信じること


このことを,今,40を過ぎて,自分自身に徹底的に教えてあげたい。

15歳のあの頃,傷つき,悩んでいた私が
ずっと求めて続けていたものを・・・。

そして,私には,そういうことを教えてくれる大人がいなかったから
私は,そういうことを教えてあげられる人になりたい。


「地獄」の意味

海外のフォーラムで,「ものみの塔」誌 2008年5月1日号の

 「聖書の良い翻訳―どのように見分けられますか

という記事が紹介されて議論されていたので,少し,その記事を私も読んでみた。

日本語:
http://watchtower.org/j/20080501a/article_01.htm

英語:
http://watchtower.org/e/20080501a/article_01.htm


その中に,次のような文章が書かれている。


「教理上の先入観が訳文に影響する場合もあります。
 例えば,一般に「良いたより聖書」と呼ばれる「今日の英語訳」では,
 イエスが追随者たちにこう言ったことになっています。

 「狭い門を通って入りなさい。
  地獄への門は広く,そこに至る道は歩きやすく,その道を行く人は多いからです」。
  (マタイ 7:13)

 マタイの記述にははっきり「滅び」とあるにもかかわらず,
 「地獄」という訳語が当てられています。
 なぜそうしたのでしょうか。
 それは翻訳者たちが,邪悪な人は滅ぼされるのではなく,
 永久に責め苦に遭うという考えを擁護したかったからでしょう。」

 「ものみの塔」誌 2008年5月1日号 22ページ。



さて,この点に関してなんですが,
確かに,「地獄」という訳語は,翻訳者の頭の中に,
その種の考えがあったのかもしれないと思う。

ただし,「心の法則」の観点から,この「今日の英語訳」(TEV)の翻訳を読むと,
それほど悪くない,と個人的には感じる。

というのは,「心の法則」では,聖書の記述は,ことごとく
象徴」「比喩」ととらえるからだ。

そのような観点から,この「今日の英語訳」(TEV)の翻訳を見れば,「地獄」とは,

 「そのような心の状態

という意味になる。

そのようにとらえる場合,はっきり言って,「地獄」という訳語は,決して悪くはない。
むしろ,「滅び」という訳語は,その種の考えを阻害するかもしれない。


かえって,「滅び」という訳語のほうが,悪いかもしれない。
というのは,エホバの証人の場合,ご存じのように,
ハルマゲドンでの滅び」(=永遠の滅び)という教えを信じてるからだ。

確かに,エホバの証人は,「地獄の恐怖からは人々を解放したと思う。
しかし,・・・
実際には,その「地獄」の恐怖に代わって,
ハルマゲドンでの滅び,という“脅しにシフトしただけだった。

こういうやり方は,「卑怯」だと私は思う。


昔から,偉大な精神的指導者たちは,「地獄」というのは
象徴」だということに気づいていた。
だから,仏教では,天台大師が「一念三千」ということを教えて,
一念」という一瞬の思い(心)の中に,
十界のすべてが備わる,と教えたのだ。

(「十界」とは,「地獄界」「餓鬼界」「畜生界」「修羅界」「人間界」「天上界」,
 そして,「声聞界」「縁覚界」「菩薩界」「仏界」のこと。)


実際,エホバの証人でさえ,啓示の書に出てくる「火の湖」とは,
象徴」であると言ってるではないか。

文字どおりの”「地獄」を信じてる人など,今日,ほとんどいない。
もし,いるとすれば,「新興宗教」か「ファンダメンタリスト」くらいのもんだろう。
21世紀の現代に生きる我々の科学的な思考が,その種の考えを「拒否」するからである。


すでに,このブログや,うちの掲示板で何度か引用しているが,
日蓮という人も,今から700年前に,こう述べていた。


「夫(そ)れ 浄土と云(い)うも 地獄と云(い)うも
 (ほか)には候(そうら)はず
 ただ我等がむねの間にあり
 これをさとるを仏(ほとけ)といふ,
 これにまよ(迷)ふを凡夫(ぼんぷ)と云(い)う」

(日蓮聖人著「上野殿後家尼御返事」 53歳の時の著述)



また,こうも述べている。


「抑(そもそも)地獄と仏とは いづれの所にとたづね候(そうら)へば,
 或(あるい)は地の下と申す経文もあり,
 或は西方(さいほう)等と申す経もしかれども
 委細(いさい)にたづね候(そうら)へば
 我等が五尺の身の内に候とみへて候(そうろう),
 さもやをぼへ候事は我等が心の内に父をあなづり母を愚かにする人は
 地獄(そ)の人の心の内に,・・・
 仏と申す事も 我等の心の内に をはします

(日蓮聖人著「十字(むしもち)御書」)




マーフィー博士も,こう述べている。


「天国も地獄もどこかよそにあるわけではありません
 人が毎日考えていることによって
 いまここに天国も地獄もつくり出されるのです。」

 (「マーフィー 値千金の1分間」 三笠書房(知的生きかた文庫),1995年。195ページ。)







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Terra's Theme (ファイナル・ファンタジー6)


アリア・ディ・メッツォ・カラッテーレ(ファイナル・ファンタジー6)
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