元エホバの証人一世、possibleの“独り言”的ブログ

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日蓮という人

私が,まだ現役JWだった頃,そして,野外奉仕に熱心だった頃,
野外には,「創価学会」の人がいて,当時はまだ彼らは
日蓮正宗からは破門されてない時代で,
それはそれは,ものすごい「折伏」をしてきたものである。

(注: 「折伏」(しゃくぶく)とは,簡単に言うと,
 いわば「強制的に」相手を説得して改宗させる行為のことである。)

私は,そんな創価学会の人に何度も会い,
彼らのその強い信仰を見るにつけ,いつしか,
彼らのその強い信仰の「理由」(根拠)を知りたくなった。
そして,現役JWとしてはめずらしく,創価学会の教えを「調べた」のである。

たぶん,多くのJWは,そんなことはしないし,調べたりはしない
だから,私は,いわば,「変なJW」だったのである。


私が調べたのは,もちろん,創価学会の入門書である。
他に,本屋さんで買ったのは,二代目の戸田会長全集の一つである。
他に,日蓮正宗教学の教えが書いてある難しい専門書がいくつか。
そして,日蓮教学の辞書がいくつか。
そして,何よりも,日蓮聖人が書いた書物。(「日蓮大聖人御書全集」と言う。)

私が主に読んだのは,「入門書」と,「日蓮大聖人御書全集」。
みんなカラフルに線が引いてあるので,たぶん,そこらへんの
日蓮正宗の教学を学んでない,なんちゃって創価学会員よりも勉強してる


もちろん,御書を読んでも,「難しい言葉」がたくさん書いてあって,
仏教の「専門用語」などの意味は,ほとんど分からない。
ただ,まったくの門外漢の人間(クリスチャン)が,日蓮の書いた
ほとんどの書物に目を通してることに意味があると思う



いずれにしても,私には,少なくとも,「ほとんどの箇所に目を通した」という自負がある。
だから,多少なりとも,「まったく調べようともしない」人間よりは,
他の宗教に対して意見を言える立場にあると思ってる


これは,いわば,創価学会員(仏教徒)が,キリスト教の信仰に対して
意見を述べるために,「聖書全巻を読んでから」意見を述べるようなものである。
こんなことは,普通は,あり得ない。
そして,同じように,JWにも,あり得ないだろう。

みんな,どいつもこいつも,自分で直接調べたわけでもないのに
他人から聞きかじった知識で,偉そうに意見を述べやがる。


さて,こうして自分で直接,日蓮の書物をじかに読んでみて,
私が感じたのは,今から700年前の鎌倉時代の日本に,
こんなにも「論理的に」物事を考える人がいたのか
と,びっくりしたものである。

彼の書いた文章の印象を一言で表現するとすれば,それは,「論理性」である。
だから,言うことが,いちいち「説得力がある」のである。
つまり,「これこれこうだから,こうである」という説明が,非常に明確なのだ。

創価学会が,他宗教の人間を折伏する際の,あの自信は,
日蓮のこの「論理性」にある。
(私の言ってる意味が分からなければ,日蓮の書物を,直接読んでみればいい。)

もちろん,今のように「仏教史学」などが,まだ発達してない時代のことで,
法華経が,釈尊(仏陀)の死後,数百年も後に書かれたもので,
「聖書の影響を受けている」ことなど,まったく知られていない時代のものであるが・・・。

しかし,それでも,その当時(鎌倉時代)の知識の範囲内で,
あれだけの「論理性」を備えてることが,すごいことだと私は思うのである。


そして,彼(日蓮)の書物には,もう一つの特徴がある。
それは,信者あてに書かれた手紙が,ものすごく「温かい」ことである。
何度も読むと,涙が出てくる

つまり,人間的に魅力的」なのである。

とかく,彼の強い信仰,他宗排撃,折伏などに目が行きがちであるが,
彼のその信者宛の温かい手紙を読むと,彼に対する印象が変わるかもしれない。

エホバの証人の人は,自分で調べないから,
こういうことは,「知らない」のである。

いい機会なので,次は,日蓮のその
温かい手紙」を紹介してみる。





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「法華経」と「聖書」

いわゆる「大乗仏教」の頂点の教典として,
法華経」(妙法蓮華経)という教典がある。

日蓮宗の宗祖である日蓮聖人(しょうにん)は,
この教典こそ,「仏の真実の教え」を教えてるものとして,
それに「帰命する」という意味の「南無」を付けて,
「南無妙法蓮華経」(なむ・みょうほうれんげきょう)と唱えた。
(だから,文字どおりには,「私は法華経を信じます」と唱えてる。)


さて,この教典,うちのサイトでは論じていないが,
西暦一世紀にインドに宣教に行った「キリスト教の影響」を受けている。
http://godpresencewithin.web.fc2.com/pages/zatsugaku/isseiki.html

もちろん,この教典だけではない。
そもそも,「大乗仏教」自体が,そうなのである。

だから,その大乗仏教の教えに,「キリスト教との共通点」がたくさんある。

それゆえ,「創価学会」と「エホバの証人」が,まったく別ものであるはずなのに,
そこに「似てる部分がある」のは,ある意味,不思議ではないのである。


ところで,法華経の第三章にある「譬喩品」(ひゆほん)に,
昨日,興味深い言葉があるのを見つけたので,ここに少し,引用してみる。
(だから,ブログに書いてるのだが)

「今(いま) 此(こ)の三界(さんがい)は 皆(みな) 是(こ)れ我が有(う)なり
 其(そ)の中の衆生(しゅじょう)は 悉(ことごと)く是(こ)れ吾(わ)が子なり」

(「真訓両読・妙法蓮華経 並 開結」 創価学会,昭和36年。233ページ。)



「三界」(さんがい)というのは,「欲界」「色界(しきかい)」「無色界」のことで,
簡単に表現すると,「世界」(世)のことである。

「衆生」(しゅじょう)というのは,簡単に言うと,「人々」のことである。

要するに,この部分は,

 「この世界に住む人々は皆,ことごとく私の子供だ

と言ってることになる。
非常に温かい言葉だと感じる。


さて,私が今日,話したいのは,実は,この部分ではない。
皆 是(こ)れ我が有(う)なり」という部分である。

原語のサンスクリット語(梵語)で,どうなってるのか私には分からないが,
漢語では,こうなってる。

「今此三界(こんしさんがい) 皆是我有(かいぜがう)
 其中衆生(ごちゅうしゅじょう) 悉是吾子(しつぜごし)」



さて,私が何を言いたいのか,もう勘のいい人は分かると思う。

 「我有」(がう)

って書いてあるんですよ。

要するに,聖書の「出エジプト記3:14」にある言葉です。
http://bbbible.com/bbb/bbbex032.html..htm#ex3.13-21

文語訳では,「我有り」(われあり)と訳され,
英語では,「I AM」と訳されている,あの言葉です。

そうすると,この法華経の言葉「今此三界 皆是我有」は,
この世界は皆,「I AM」のものである」とも読めないだろうか。


この言葉に続く文章もおもしろい。

「而(しか)も今 此(こ)の処(ところ)は 諸(もろもろ)の患難多し
 唯(ただ)我(わ)れ一人(いちにん)のみ 能(よ)く救護(くご)を為(な)す

(「真訓両読・妙法蓮華経 並 開結」 創価学会,昭和36年。233,234ページ。)



この法華経の言葉も,「心の法則」の観点から読むと
実に,素晴らしいことを教えてると私は思う。

すなわち,「I AM」(「」,われ)のみが救いを施すのである。

言い換えれば,「あなたがあなたの(究極の)救い主」なのであり,
それ以外のところ(あなたの「外部」)に「救い」を求めても,
そこに,本当の助けがあるわけではないのである。





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あなたの好きな聖句は何?

私は,現役JWだった頃,兄弟姉妹たちに

 「あなたの好きな聖句は何ですか?

と訊くのが好きだった。

そうすると皆,思い思いに,自分の「好きな聖句」を教えてくれた。

その聖句が「どうして」(なぜ)好きなのかということを訊くと,
その人のことを,もっと良く知れた。
なぜなら,その聖句が好きな「理由」が,あるからである。

そうすると,それは,その人の「境遇」(背景)なり,
辛かったこと」なり,そういうことと深い関係があったりする。
そして,その聖句は,そんなその人のことを「励まし」たり,「慰め」たりする。
その人の「心の琴線に触れるもの」が,何か,そこにあるのである。


この質問は,もちろん,元カノにもした。
彼女は,「抑うつ神経症」という心の病をかかえていた。
すなわち,気分がすぐれた時(調子がいい時)と落ち込む時(調子が悪い時)が交互に訪れる。

彼女の複雑な「家庭環境」や,様々な「辛い経験」が重なり,
彼女をそうさせてしまったのである。


彼女の好きな聖句は,「ゼパニヤ3:17」だった。
彼女は,その聖句をカードに書いて,私にプレゼントしてくれた。

その聖句とは,こんな聖句である。

「あなたの神エホバがあなたの中におられる。
 強大な方であり,救いを施してくださる。
 歓びを抱いてあなたのことを歓喜される。
 その愛のうちに沈黙される。
 幸福な叫びを上げてあなたのことを喜ばれる。」
 -ゼパニヤ 3:17。[新世界訳]
 http://www.watchtower.org/j/bible/zep/chapter_003.htm#bk17




当時は,私は現役JWであり,聖書の「文字どおりの読み方」しか知らなかったが,
この聖句は,私の心を打った。

しかし,今,「心の法則」というものを,だんだんと理解し始め,
今,この聖句を思い起こしてみると,その出だしから興味深い。

「あなたの神エホバがあなたの中におられる。」



普通に読むと,何てことはないが,これ,注意深く読むと,
神が,「あなたの中におられる」と書いてある。

中におられる」・・・
あなたの「中に」・・・

すごい。
ちゃんと,「はっきりと」書いてあるじゃないか。聖書に。


「歓びを抱いてあなたのことを歓喜される。・・・
 幸福な叫びを上げてあなたのことを喜ばれる。」



元カノが,いいと思っていたのは,もちろん,この部分である。

彼女は,様々なことで「自尊心」を失っていた。
だから,神が,そんな彼女のことを「幸福な叫び」を上げて「喜ばれる」
と言っているこの聖句が,きっと,彼女の心の琴線に触れたのであろう。

私が,いいと思うのは,「あなた」と単数形で言ってる部分である。
「あなた方」(複数形)ではない。
神は,「あなたのことを」喜ばれるのである。


ちなみに,「幸福な叫びを上げて」という部分は,
現代訳では,「主は歌を歌って」と訳されてる。
そうか,神は,それほどまでに喜んでくれるのか。

また,「喜ばれる」と訳されている部分は,
新エルサレム聖書では,“he will dance”と訳されている。
そうか,神は,「ダンス」を踊ってくれるほど,喜んでくれるのか。

歌を歌い,ダンスを踊りながら,自分のことを喜んでくれる神。
素晴らしいじゃあないですか。


「その愛のうちに沈黙される。」



この部分の解説として,ある聖書注解書は,次のように述べる。

「"叫びよりも身振りよりも,沈黙によって表される最も深い新郎の愛"
 という解釈は,この箇所に十分調和する。」

(「新聖書注解・旧約4」いのちのことば社,1974年。615ページ。)



この部分には,「ことばでは表現しきれない深い愛」とも書かれている。

ことに,「新郎の愛」というのは,興味深い解釈である。
すなわち,自分の妻(エルサレム)を愛する「夫の愛」である。
しかし,もちろん,セプトゥアギンタ訳では,この愛は,「アガペー」と表現されている。

言葉では表現しきれないほどの深い愛(アガペー)でもって,いつも見守り,
歌を歌いながら,そして,ダンスをしながら
「あなたのことを喜ばれる」神。


あなたの中にも,この「愛にあふれた神」がいる。
そして,この神は,あなたを通して,ご自身を「表現」なさるだろう。

そう。
愛にあふれた「あなた」を通して。
神の子である「あなた」を通して。



顕在意識と潜在意識の「一致」

さて,今日は,私がまだ聖書の「文字どおりの読み方」
しか知らなかった時に,マーフィー博士の本を読んでいて,

 「もしかしたら,マーフィー理論は正しいのかもしれない」

と思った聖句を紹介してみたい。

それは,こんな聖句である。

「あなた方に真実に言いますが,
 地上にいるあなた方のうちの二人が,どんなことでも
 自分たちの請い願うべき重要な事柄について同意するなら,
 天におられるわたしの父によって,それは
 その[二人]のためにそのようになるのです。」
 -マタイ 18:19。[新世界訳]
 http://www.watchtower.org/j/bible/mt/chapter_018.htm#bk19




さて,この中に出てくる「二人」とは,具体的には,「誰」のことか。

そして,なぜ「二人」が,ある事柄について「同意」すると,
それは,父(神)によって,「そのようになる」のでしょうか。

これは,いったい何を教えようとしているのだろうか。


この聖句を「ものみの塔ライブラリー」で検索してみると,

*** 塔98 3/1 14ページ 1節 クリスチャンの集まりの価値を認識する ***

「確かに,その約束をした時イエスは,会衆で指導の任に当たる人たちが正しく扱うべき審理上の問題について論じておられました。(マタイ 18:15‐19)」



という解説が出てくる。

他の解説部分も見ても,大抵は,「長老」たちが共に集まる時のことや,
審理問題」(排斥問題)を扱う時のことについて言及してる。

( ̄-  ̄ ) ンー
実に,つまらん。

イエスは,そんな「つまらないこと」を教えようとしてたのだろうか。


では,「マーフィー理論」によると,この聖句は何を教えようとしているのか。

マーフィー博士によると,この中の「二人」とは,具体的には

 「顕在意識」と「潜在意識

のことを指している。

そして,別の表現では,

 「あなた」とあなたの「願望」,
 あなたの「思想」と「感情」,
 あなたの「考え」と「情緒」,
 あなたの「願望」と「想像力

というふうにも表現されている。
(ジョセフ・マーフィー著「眠りながら成功する」第二版。
  産業能率大学出版部,平成元年。131,132ページ。)


そして,この「二人」の間に「調和ある結合や一致」があると,
あなたの祈りは「かなえられるでしょう」と書かれています。
(これは,以前に説明したとおり,「夫」を「顕在意識」,「妻」を「潜在意識」と考え,
 「調和ある結合」を「結婚」と考えれば,分かりやすい。)

私は,マーフィー博士のこの説明を初めて見た時に,
「この説明は,もしかしたら本当かもしれない」と思ったものである。


いずれにしても,この聖句を,「心の法則」の観点からだけでなく,
たとえ「文字どおり」にとらえたとしても,
「二人」(あるいは,二人以上)の人間の間に「同意」(意見の一致)があり,
その,共に同意した「共通の目標」なり考えなりに向かって,「一致協力」しあい,
「共に努力」して取り組めば
,それは,かなえらえることを教えてるのではないだろうか。

それが,二人の「夫婦」の間であれ,「友」との間であれ,
あるいは,「仕事」の関係であれ,そうだろうと思う。

一人より,「二人」が勝るのである
だから皆,「チーム」なり,「団体」なり,
組織」なり,「会社」を結成して,物事に取り組むのである。
(ナポレオン・ヒル博士は,この協力関係を「マスターマインド」と呼んだ。)


こういうふうに,聖書を読んで,誰もが適用できるように普通に考えればいいものを
どうして,統治体は,この聖句は,「長老」だとか,「審理問題」について論じていた
などと,つまらない解釈をほどこすのだろうか。
こんなものは,「組織以外の人」(エホバの証人以外の人)にとっては,何の意味もない。


ただ,もちろん,そのような解釈をするのは「自由」だと私は思う。
しかし,エホバの証人の間では,そうはいかないのである。

 「出版物にこう書いてある。だから,その解釈が絶対に正しい
  その他の解釈は,間違ってる。」

と考えるのである。

そして,それ以外の解釈を,公の場で,あるいは,個人的に口に出して言えば,

 「出版物のどこに,そんなことが書いてありますか。
  きちんと忠実に,出版物に書いてあることに基づいたことを述べてください。
  奴隷級の解釈とは違うことを言うあなたは,謙遜ではない。
  聖書を独りで読んで,個人的な解釈,あなたの勝手な考えを抱くことは,たいへん危険です。」

などと言うのである。

まったく,ばかみたいな組織だと思う。
ここの,どこに「知恵」があるというのだろう。

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自分の「才能」を埋めていないか

さてっと,そろそろまた,「更新」というものをしてみますか。
もしかしたら,更新を楽しみにしてくれてる人もいるかもだから。

今日は,何を話してみましょうかね。

前にも話したことがあるかもしれませんが,
タラントのたとえ話」を取りあげてみましょうか。
これは,うちの掲示板でも話したし,他の人のブログでも話した。
でも,知らない人もいるかもだから,話してみる。


タラントのたとえ話」というのは,エホバの証人なら,
私が,わざわざ説明しなくてもよく知ってる。
それは,「マタイ25章」に出てくる。

ある日,ご主人が旅行に行くことになった。
そして,自分の奴隷たち(いわゆる,現代で言う従業員)を呼び寄せ,
ある人には「5タラント」,別の人には「2タラント」,さらに別の者に「1タラント」をあずけた。

そして,そのご主人の旅行中に,5タラントの人は商売をしてさらに5タラントもうけ,
2タラントうけとった人も,もう2タラントもうけた。

しかし,1タラントうけとっていた人は,何もせず,地面の中に埋めておいた。
だから,もうけはなかったので,主人に厳しく罰せられた。



という話である。


この適用に関しては,ものみの塔協会では,もちろん「宣教」にあてはめられている。
(正確には,「キリストの弟子を作る使命」だとか,
 「宣べ伝える業を十分に行なって天の主人の持ち物を増やすために働く」などと表現されている。)

だから,いわば,宣教(宣べ伝える業)において何の努力もしない人(「弟子を生み出す」面での努力を怠ってる人)は,
主人に裁かれる,という結論に達せざるを得ない。


このJWの解釈(適用)に関しては,現役の時から,何とつまらないものだろうと思っていた。

しかし,「新キリスト教辞典」は,「賜物」という項目で,
このたとえ話に関して,次のように述べる。

「8.賜物をどう生かすか.
 賜物を健全に認識し使用するための知恵もまた,賜物の与え手である神のものである.
 聖書が至る所でそれを教えている.直接賜物に言及している箇所に限らないが,
 イエスの語られたタラントのたとえ(マタイ25:14‐30)はその代表である.
 この話のタラントの原語〈ギ〉タラントンから由来した〈英〉タレントは,
 英語のみならず今や日本語としても「才能」を意味する語として使われるに至った

 ミナのたとえ(ルカ19:12‐27)も同趣旨であるが,この二つの話から,
 hide ones talents in a napkin(自分の才能を持ち腐れにする)という言い回しが生れたほどである.
 両方のたとえ話に共通する「だれでも持っている者は,与えられて豊かになり,
 持たない者は,持っているものまでも取り上げられる」という結論的な教訓は見落せない.
 「持っている」とは,ただ持っているとか,なくさないとかいうのではなく,
 「使っている」という意味である
与えられても使わないのは,持っていることにならない
 賜物は,それを与えた方の意図に従って用いられるために与えられたのである.」

(「新キリスト教辞典」いのちのことば社,1991年。890ページ。)



この「新キリスト教辞典」の説明は,私は現役のJWだった時から知ってるし,
何度も掲示板などで引用して説明してきた。

しかし,今,マーフィー理論が少しずつ分かり始め,
聖書がことごとく,「心の法則」(人の「心の働き」)について述べてるものだと分かってくると,
この「たとえ話」(象徴,比喩)の意味が,もっと,ぐっと心に迫ってくる。

聖書は,「宣べ伝える業」にもっと参加したり,
「弟子を作る」ことについての教訓を述べていたのではなく,
神から与えられたあなたの「才能」(talent)を地中に埋めて,
持ち腐れにしてはいけないよ
,と教えてくれてるのだと。

どんなに少なくても,「1タラント」は与えられてるのです。

しかし,世の中には,その「1タラント」が与えられてることにも気づかず,
いわば,地中に埋めたままで,人生を終わる人が何と多いことだろう。

神は,きっと,その時に,「どうしてそのタラントを生かさなかった
と問われるのだろうと思う。

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「自分の理解に頼ってはならない」とは?

さて,koroさんが箴言3:5,6をどう思うか
という興味深い話題を提供してくださったので,
この聖句について,「心の法則の観点から論じてみたいと思います。

では,まず,その聖句を新世界訳から引用してみます。
その聖句とは,こんな聖句です。

 「心をつくしてエホバに依り頼め。
  自分の理解に頼ってはならない。
  あなたのすべての道において[神]を認めよ。
  そうすれば,[神]ご自身があなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」
  -箴言 3:5‐6。[新世界訳]
  http://www.watchtower.org/j/bible/pr/chapter_003.htm#bk5



この聖句も,実に頻繁に,ものみの塔の出版物の中では引用されると思います。
そして,その適用に関しては,「エホバに頼る」こと,
そして,エホバが用いておられる「組織に頼る」ことを勧めるものです。

そして,「自分の理解に頼ってはならない」とは,当然,
「自分の考え,自分の思い,自分の願い,自分の感情」などに頼ってはならないということです。

こうして,自分の「心の声」は無視して,
盲目的に,「組織の言うこと(あるいは,長老や親)に従う」ようになってしまうのです。
(これを突き詰めると,実は,人は病気になります。すなわち,「心の病気」です。)


しかし,聖書は,本当に,「そういうこと」を教えてるのでしょうか?
では,「心の法則」の観点から,この聖句を,少し考えてみたいと思います。


まず,「心の法則」の観点からすると,聖書はことごとく
人間の「心の働き」について言及してると解釈します。

そして,神は,「内なる神」(God presence within you)であると教えます。
すなわち,聖書の教える神とは,「外部」にいるのではなく,「私たちの中に」いるのです。

その自分の「内なる神以外への崇拝」(すなわち,「外部の」人間や環境に頼ること)を,
聖書は「偶像礼拝」とか,「姦淫」(霊的姦淫)と表現して非難しています。
(この意味で,エホバの証人の教え(組織崇拝)は,まさに,聖書の言う「偶像礼拝」です。)

そのことが分かった時に,この聖句は,いい聖句だと分かるはずです。


まず,

 「心をつくしてエホバに依り頼め


と述べています。

これは,つまり,あなたの「内なる神に」頼れということです。(「外部の」何かに頼るな,の意。)
そこまでは,いいでしょう。


次に,

 「自分の理解に頼ってはならない


と述べています。

これは,どういう意味でしょうか。

私たちの「考え」は,大方,「ネガティブな傾向」があります。
だから,よっぽどの傲慢な人間か,うぬぼれた人間でもない限りは,
たとえば,何かを始めたり,何か新しいことに挑戦しようとする時に,
自分に関して,次のように「消極的に考えたり」するのです。

 「自分にはできない」「無理だ(不可能だ)」「やっても無駄だ」
 「誰もやったことがない」「経験がない」「お金がない」「外見が悪い」,etc・・・。


私が思うに,そういう,自分に「限界」を設けたり,「ネガティブ」にとらえたり,
自分の「能力のほんの一部分」しかとらえられない「顕在意識」の段階で
無理だと思うような,そういう「自分の(小さな)理解」に頼ってはならない
と教えてるのだろうと私は思います。


だから,次に,聖書は,こう述べるのです。

 「あなたのすべての道において神を認めよ


と。

これは,要するに,自分の中の「内なる神を信じろ」ということ,
言い換えれば,"Believe in yourself"「自分を信じろ!」という意味です。

顕在意識のほうでは,「無理だ」「自分にはできない」という言葉が何度も聞こえてくるのです
しかし,そういう声に耳を傾けるのではなく,自分の中に住む「全能の神」,
「あなたを必ず助ける」と言っておられる神を信じろ!ということです。


 「そうすれば,神ご自身があなたの道筋をまっすぐにしてくださる」。


この部分は,英語では,こうなってます。
 
 "and he himself will make your paths straight."

この"he himself"という訳し方は,いい訳し方だと私は思います。
この部分のヘブライ語は,人称代名詞がわざわざ用いられ,その部分が「強調」されているのです。
すなわち,「he(神)」という言葉を強調しているわけです。

これは,どういう意味か。
それは,他の人じゃない,「神ご自身が」,あなたを助けるとの約束です。

だから,「神に頼れ」って言ってるんです。聖書は。


他の人は,「お前には無理だよ」と言うかもしれない。
そして,自分も正直,心の中では,「自分には無理かもしれない」と同じように感じる。

周りからは無理だと言われ,自分もそう思う
この時,私たちは,致命的な打撃を受け,本当に無理だと感じてしまいます。
そして,私たちの中からは希望は消え,やる気はうせ,目の輝きは消え失せるのです。

そして,その「弱い自分」,「折れそうな自分」,「ほんとうは恐い」と思ってる自分に
時には負けそうになる。


しかし,聖書は,「そういう自分の理解に頼るな」って教えてるんです。
自分の「表面的な理解」,「狭い人生経験」からしか導けない理解,
あらゆる知識を持ってるわけではない自分の「今の理解」,
あらゆる可能性を把握できない,自分の「小さな理解」,
消極的な自分」,そういうものに頼るな,と。


あなたの中には,あなたの心の深い部分には,「全能の神がいるのだ」と聖書は教えます。
すなわち,聖書が「I AM」と言ってる方です。

だから,周りがなんと言おうと,「神の助け」があれば,何でもできるはずなのです。

だから,何もしないうちに,何も挑戦しないうちに,自分には無理だと考えるのは,
本当は,心からは,神を信じていないのです。

だから,「神(I AM)を信じる」とは,「自分を信じる」という意味です。


ましてや,これは,「ものみの塔協会(外部の人間)の教えに頼れ」という意味では断じてない。
そう私は思う。
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