元エホバの証人一世、possibleの“独り言”的ブログ

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あなたは「神の神殿」である

聖書には,次のような,とても興味深い,
そして,思考を刺激する言葉が書かれている。


 「あなた方は,自分たちが神の神殿であり
  神の霊が自分たちの中に宿っていることを知らないのですか。」
  
  - コリント第一 3:16。[新世界訳]
  http://www.watchtower.org/j/bible/1co/chapter_003.htm#bk16



さて,現役のエホバの証人のうち,いったい,どれほどの人が,

 「自分は神の神殿だ」,
 「神の霊が自分の中に宿っている

ということを“知っている”だろうか。

たぶん,聖書のこの言葉を読んでも,
その「意味」を,あまり深く考えたことがないかもしれない。


さて,使徒パウロは,同じ「コリント第一の手紙」において,
同様の,次のような言葉を残している。

 
 「あなた方の体が,あなた方の内にある聖霊の神殿である
  ことを知らないとでもいうのですか。」
  
  - コリント第一 6:19。[新世界訳]
  http://www.watchtower.org/j/bible/1co/chapter_006.htm#bk19




さらに聖書は,次のように述べる。


 「わたしたちは生ける神の神殿なのです
  神が言われたとおりです。
  「わたしは彼らの中に住み,彼らの中を歩くであろう。
   そしてわたしは彼らの神となり,彼らはわたしの民となる」。」
 
  - コリント第二 6:16。[新世界訳]
  http://www.watchtower.org/j/bible/2co/chapter_006.htm#bk16




聖書の教えは非常に明確である。

すなわち,

 わたしたちは神の神殿である

ということである。

だから,わたしたちの中に神は住む("I will dwell in them" KJV),と聖書は述べているのである。
http://bible.cc/2_corinthians/6-16.htm


これは,「内なる神」(God presence within you)を信じてる人たちにとっては
非常に分かりやすい聖書の言葉であるけれども,ある人たちにとっては,
“衝撃的な”,また,思考を刺激する言葉ではないかと私は思う。

それは,「内面」を“象徴的,比喩的に”描写した,
聖書の非常に「美しい表現」の一つである。

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神からの「プレゼント」

大乗仏教の経典に

 『心地観経』(しんちかんきょう)

という名の教典がある。

その教典の「名称」から分かるとおり,「」について大切なことを教えており,
からすべてのものが生ずると,その教典は説いている。

さて,その経典の中に,次のような興味深い言葉が書いてある。


 「過去の因(いん)を知らんと欲せば 其(そ)の現在の果(か)を見よ
  未来の果(か)を知らんと欲せば 其(そ)の現在の因(いん)を見よ」



これは,要するに,「原因と結果の法則」(因果の法則)について述べている。

つまり,現在の「結果」は,過去にその「原因」があり,
未来の「結果」を知りたければ,「現在,何をしているか」を見れば分かる
ということである。

これも,実に,奥が深い言葉である。


「過去」はもう変えられない。
それはもう「過ぎ去ったもの」である。
私たちが変えることができるのは,「未来」だけである。

しかし,その未来も,「現在の行動の結果」なのである。
だから,「現在,何をしているのか」が重要になってくる。


私は,かつて,ロバート・H・シュラー博士(Dr. Robert H. Schuller)が述べてくださった言葉を思い出す。

それは,英語では「」(現在)のことを

 "present"

と言うのだということを。

これは,日本語的に発音すると,

 「プレゼント

である。
すなわち,「贈り物」である。


シュラー博士は,こう言う。


 「なぜ,「現在」(今)を英語では"present"と言うのか。
  それは,神からのプレゼントだからだ」


と。


そう。
かけがえのない「」(現在)という時間。
二度と戻ってこない」その貴重な時間。
」というその時。

どんどん成長してゆく子供たちと過ごすその時間。
家族と共に食事をしたり,遊んだりするその時間。
みんなの笑顔。

二度と戻っては来ない,「という時間

あなたが大切だと思ってる人とも,いつかお別れする時が来る
厳しい現実だけど,それが真実である。

仏陀はそれを


 「生者必滅(しょうじゃ ひつめつ)
  会者定離(えしゃ じょうり)」


と表現した。

すなわち,生きている者には必ず死ぬ時が来るのであり,
出会いがあれば,必ず別れがある」ということである。

だから,その日がいつ来ても大丈夫なように,
という時間を大切にしよう

」,愛する人が隣にいるのなら,
愛する人の目を見て,抱きしめて,「愛してるよ」と言おう。
」言わなくて,いつ言うのか。
」花をプレゼントしなくて,いつプレゼントするのか。

ある日の夜,マーサという女性は,夫にこう訊ねた。


 「ねえピーター。
  もしわたしが死んでしまったりしたら,
  きっとたくさんのお金で花を買ってくださるわね。」

 「もちろんだよ,マーサ。
  どうしてそんなことを聞くのかね。」

 「その時には,20ドルの花輪も,わたしにとっては,
  何にもならないんじゃないかと,今思っていたのよ。
  でも,わたしの生きている間に
  ときどき一輪の小さな花をくだされば

  それはとても大きなことだわ。」

(ボブ・コンクリン著「人間の魅力」 創元社,1973年。104ページ。)



なぜ心臓が止まり,目が見えなくなり,耳が聞こえなくなるまで待つ必要があるのだろう。
今すぐ,喜ぶことのできる間に,どうして花を贈らないのだろう。

そう。神は,「」(現在)を"present"してくださったのだ。
だから,私たちは,「」この時を大切にしよう。

」を大切にする人に,きっと,明るい未来が待っていることだろう。



高鈴(こうりん) 「愛してる」 (「続夏目友人帳」ED)
(このPVの最後に映る,結婚式における「父と娘の演奏」をご覧ください。)






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「わたしの救いの神」の意味


 「いちじくの木が花をつけず,ぶどうの木に実がならなくても,
  オリーブの木が不作に終わり,段丘が全く食物を産み出さなくても,
  羊の群れが全くおりから絶え,囲いの中に牛の群れがいなくなっても,
  それでもわたしは,ただエホバにあって歓喜し,
  わたしの救いの神にあって喜びにあふれます。」
  
  - ハバクク 3:17,18。[新世界訳]

http://www.watchtower.org/j/bible/hab/chapter_003.htm#bk18




さて,今日は,私が現役エホバの証人だった頃,
個人的に「こだわっていた」ことについて述べてみたいと思う。

それは,聖書の中の

 「わたしの救いの神

という表現について,である。


さて,ここの「どこに」こだわってたの?
って,あなたは思うかもしれない。

実は,わたしの

 「救いの神」

じゃないという点に,なんです。


 (∂。∂?) はあ?


私の言いたいことが,まだよく分かんないという人のために,
「英語」で説明してみますね。

これ,日本語だと分かりづらいんですが,
英語では,この「わたしの救いの神」は,

 "the God of my salvation"

と書きます。


つまり,どういうことかというと,

 「わたしの救い」の神

なんです。

分かりますかね?


つまり,

 わたしの 「救いの神

と言ってるんじゃなくて,

 「わたしの救い」 の神

だって,聖書は言ってるんです。


これ,ちょっとした違いだけど,「ものすごい違い」だと思うんですよね。私は。

神は「救いの神」だから,すごいって言ってるんじゃなくて,

 「私の救い

の神だから,すごいねって言ってるんですね。聖書は。


これ,案外,知らない人,多いんじゃないのかな?

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メアリー・ケイ・アッシュと「マルハナバチ」の置物

それを知ったのは,最初,私の尊敬する
ロバート・H・シュラー博士(Dr. Robert H. Schuller)の本を読んだ時だった。

そこには,こう書かれていた。


空気力学的に見ると,その体の小ささと羽のサイズから,
 とても飛ぶのは不可能だと思われるマルハナバチが,
 あれほど自由に空を舞うのは,
 「飛べないよ!」と言われたことがないからだ。・・・

 我々は自己否定という重い荷物をいつも運んでいる。
 だが,そんなものはほうっておこうではないか。
 そんなものは下に落とそう。
 自己非難や自己軽視はやめよう。
 健全なうぬぼれをもつ人にとって,失敗はけっして終点ではない。」

(ロバート・H・シュラー著「いかにして自分の夢を実現するか」
  三笠書房,1989年。94,95ページ。)




その後,メアリー・ケイ・アッシュ(Mary Kay Ash)という名の
アメリカの化粧品会社の創立者が,
彼女の会社のマスコットとしてマルハナバチを用いてることを知った。

多くの女性たちが働いているその会社で,
彼女は,なぜ,それを会社のマスコット(シンボル)にしたのか?

彼女は,こう述べている。


「私の会社のマスコットはマルハナバチです。
 ずっしりと重い体に小さな羽。
 空気力学を考えれば飛べるはずがありません
 でもマルハナバチはそんなことを知らず,
 ともかく飛んでしまうのです。」

http://becom-net.com/wise/meari-.kei.assyu.shtml



それで,この会社では,マルハナバチのダイヤモンドをちりばめた「置物」を作り,
彼女の会社においてトップの成績を収めた女子社員に贈呈している。

マルハナバチ

画像のクレジット:
http://www.directsalesmarketingqueen.com/direct-sales-legends-and-legacy/discover-the-bumblebee-a-womans-secret-symbol


私たちも,マルハナバチのように,「あなたは飛べないはず」と周りから言われるかもしれない。
それには,「明確な証拠」もつきつけられ,多くの実体験,そして論理性によって説明されるかもしれない。

: 
  「お前は飛べないはず」と言ったのは,「航空力学」,つまり,
   空を飛ぶことにかけてはプロ専門家が言った言葉である。
   その「専門家」の言うとおりにしなければ,
   人間は,あれほど重いジャンボジェット機(鉄のかたまり)を飛ばすことも,
   スペースシャトルを宇宙に飛ばすこともできない。
   私たちには,その分野の「専門家がそう言ってるのなら,間違いない
   と思う傾向がある。
   しかし,かつては,「鉄のかたまり」を空に飛ばすこと,「音速を超える」こと,
   「大気圏を抜け出る」こと,これらは「不可能」であった。)


その上,自分の中でも,「自分には無理かもしれない」という心の声が聞こえるかもしれない。
しかも,一度や二度ではなく,一日に何度も何度も。


だが,マルハナバチは,そういう「ネガティブな言葉には一切耳を傾けなかった
お前は飛べないはず」という言葉を無視したのだ。

実際,マルハナバチは,自分たちが飛べないことなんて「知らない」。
だから,「飛べないはずなのに,羽をいっぱい動かして「飛ぶ」んだ。

なんて,すごいハチなんだろう!

私たちも,マルハナバチのようになりたい。

だから,常に,「ポジティブな人たち」の言葉に耳を傾け,
自分の夢を信じ,自分の内なる力を信じて
まずは,最初の一歩を踏み出してみよう。

自分の傷ついた「羽」をいやし,
疲れた「翼」を十分休めたら,
もう一度,再び,動かしてみよう。


マルハナバチは,「無言のうちに」私たちにこう語りかけてくれているのである。

 「君も飛べるはずだよ。
  だって,ぼくは,飛んでるよ

って。


参考記事:
http://godpresencewithin.web.fc2.com/pages/murphy/maruhanabachi.html

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すべては,私たちの「心」次第

日蓮聖人は,まだ青年の若き頃(34歳の時),こう述べていた。


 「衆生(しゅじょう)の心けがるれば 土(ど)もけがれ
  心清ければ 土も清しとて
  浄土と云ひ 穢土(えど)と云うも 土に二(ふたつ)の隔(へだて)なし
  (ただ)我等が心の善悪によると見えたり

  (日蓮聖人著「一生成仏抄」 34歳の時の著述)



ここに出てくる「穢土」(えど)という言葉は,
「穢(けが)れた土」と書いて,「汚れた国土」のことを表している。
これはもちろん,仏や菩薩の住む「浄土」(じょうど)に対する言葉である。

しかし,日蓮は言う。
「浄い国土」(浄土)も「穢れた国土」(穢土)も,土に二つの隔てはない。
ただ,私たちの「」の善悪によって
そこが「浄土」にもなり,「穢土」にもなると。

これもまた,実に奥が深い,いい言葉だと私は思う。


聖書にも,似たような言葉がある。
それは,使徒パウロが述べた言葉である。


 「わたしは知り,また主イエスにあって確信しているのですが,
  それ自体で汚れている物は何もありません。
  ただ,人がある物を汚れていると考える場合にのみ
  その人にとってそれは汚れたものなのです。」
  
  -ローマ 14:14。[新世界訳]



この説明など,ほとんど日蓮聖人が言ってることと同じだと私は思う。
すべては,その人の「」が決めるのだ

だから,ある人にとっては,それは「汚れている」し,
ある人にとっては,それは「汚れていない」(清い)のである。

これは,完全に,「心の法則」を教えているのではないだろうか。


たとえ,「同じ事実」や「同じ対象」を見ても,
すべての人が,まったく同じように考えたり,感じたりするわけではない。

すべて,その人の「」がそれを見て判断するのである。

「それは良くない」とか「すばらしい」とか,
「美しい」とか,「きたない」とか,
「うれしい」だとか「うれしくない」だとか,
「しあわせ」だとか,「不幸」だとか。


今,「しあわせだ」とか「不幸だ」とかって感じるのも,
皆,私たちのがそう判断してるのである

だから,もし,その人の「心がネガティブ」なら
そのネガティブな心で世の中や周りを見ているのだから,
きっと,「すべてがネガティブに映る」ことだろう。


一方,もし,その人の「心がポジティブ」なら,
まったく「同じ事実」を見ても,「同じ苦しみや悲しみ」に出会っても,
きっと,違うふうに反応するだろう。

その悲しみや苦しみの中にも,
その人はきっと,「ポジティブな点」を探しだし,
強く立ち上がって,再び,前に進もうとするだろう。
そして,その経験をとおして,他の人を励ますのである。

私たちは,そのような人になりたい。


最後に,もう一度,日蓮聖人の言葉をここに引用して,この記事を終わりにする。


 「浄土と云ひ 穢土(えど)と云うも 土に二(ふたつ)の隔(へだて)なし
  (ただ)我等が心の善悪によると見えたり







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