元エホバの証人一世、possibleの“独り言”的ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

他の宗教(異教)の影響下にある「聖書」

エホバの証人にとっては,
聖書」というのは,霊感を受けた「神の言葉」であり,
他の諸宗教の「聖典」などとは,明確に,一線を画している。

だから,「聖書を使って」他の宗教を攻撃するし,
異教」に起源があるとして,様々な「祝日」や「祝い」を祝わない。


しかし,いったん,カルト的な思考を抜け出て,
純粋に「聖書」そのものを見る時,
そこには,「他の民族の宗教や文化から
多大な影響を受けてるものがあることが見えてくる。


1
例えば,あなたは,「ハンムラビ法典」って聞いたことがあるだろうか。
そこには,「目には目を,歯には歯を」と書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%83%93%E6%B3%95%E5%85%B8

聖書を読んだことがある人なら,一目瞭然だが,
これは,「聖書の言葉」である。
しかし,その言葉が,なぜ「ハンムラビ法典」に書いてあるのか。

「ハンムラビ法典」が,「聖書」の言葉を拝借したのか,
それとも,「聖書ハンムラビ法典の言葉を拝借したのか

答えは,明らかであるとは思うが,
あえてそれに言及はせず,あなたの判断にまかせる。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/8769/kagaku/babiron.htm


2
また,聖書に起源がある教えとして,
預言者」,「救済者(メシア)の思想」,
終末論」,「天国」と「地獄」,「最後の審判
といったものがあるかもしれない。

しかし,これも,実は,ペルシャの宗教「ゾロアスター教の影響である
と言われている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E6%95%99#.E4.BB.96.E5.AE.97.E6.95.99.E3.81.B8.E3.81.AE.E5.BD.B1.E9.9F.BF


また,ゾロアスター教は,「」を尊ぶため,
別名,「拝火教」(はいかきょう)とも呼ばれるが,
聖書の中でも,「」は,動物の犠牲にしろ,
イスラエルを導く「火の柱」にしろ,
ソドムとゴモラの滅びにしろ,
バアル神の信者を滅ぼすにしろ,重要な役割を果たしている。

(ちなみに,関係ない話だが,その神「アフラ・マズダー」から,
 日本の自動車メーカー「マツダ」という名前が付けられている。
 
 また,大乗仏教においては,「阿修羅」(あしゅら)も,
 たぶん,その神のことである。
 また,弥勒の信仰も,その影響を受けているのかもしれない。
 また,特に,「真言宗」で護摩を焚くことも,拝火教の影響だろう。)


3
また,聖書では,「」のことをヘブライ語で「エール」と言うが,
これは,「ウガリット神話に出てくる神々の一つなのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E3.82.A6.E3.82.AC.E3.83.AA.E3.83.83.E3.83.88.E7.A5.9E.E8.A9.B1.E3.81.AE.E7.A5.9E.E3.80.85


4
他にも,たとえば,古代ヒンズー教バラモン教)の創造神は
ブラフマー」(Brahmaa)と言うが,それが,聖書の創世記に出てくる
アブラハム」(Abraham)と,名前が非常によく似てること。

興味深いことに,ブラフマーの「妻」の名は,
サラスバティー」という。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%BC

そして,ご存じ,アブラハムの「妻」の名は,
サラ」と言った。

これなども,どちらかがどちらかをパクった」のか,
あるいは,何らかの「共通の源」があったか,
あるいは,「影響」を受けたものであろう。


5
また,インドの聖典に「バガヴァッド・ギーター」という書物があるが,
それに登場する神の化身クリシュナ」と,
神の御子「キリスト」の類似点も,
決して,偶然ではないのかもしれない。
http://blog.sitarama.jp/?eid=450698

そこに書いてあることは,「聖書」の記述と非常に似ている
しかも,どちらも「神の言葉」と言われている。
これなども,どちらかがどちらかに影響を及ぼしたとも考えられる。
ちなみに,「新約聖書」よりも,「バガヴァッド・ギーターのほうが古い


以上,考慮した事柄は,ほんの「一部分」である。

他にも,「ギルガメシュ叙事詩」からの,「洪水」や「箱船」の話の「パクリ」だとか,
http://takasi.at.webry.info/200801/article_22.html
http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/jesus/old-testament3.htm
旧約聖書の中に,古代インドの言葉である「サンスクリット語」が混じってるとか,
そういう話をすれば,きっと,きりがないだろう。
あなたは,もしかしたら,そういう類の話を,「もっと知ってる」かもしれない。
(知ってたら,ぜひ,教えてください。)


こういう話は,「聖書こそ 宗教の正邪をはかるための基準
などと考えてる人にとっては,有り難くないかもしれない

しかし,実際には,「聖書」とて,
他の宗教や文化から,多大な影響を受けているのである。

そういうことを知るだけでも,ある人にとっては,
マインド・コントロールを解く」ための助けとなるかもしれない。


私は,聖書の「価値」を否定してるのではない。
「聖書」はもちろん,文化的には,ものすごい「価値がある」書物である。
その書物が「人類に与えた影響」も,はんぱない。
そこには,ユダヤ人の並外れた「知恵」が含まれており,感動する言葉も多々ある。
それは,私たちが,これからも保護してゆくべき,人類の貴重な知的財産」の一つである。

しかし,「聖書は絶対」(キリスト教は他の宗教よりも優れてる)
などという幻想からは,離れるべきである。

そう私は思う。


関連記事
スポンサーサイト

人間は自分が考えているような人間になる

私が尊敬している人に,
アール・ナイチンゲール博士」という方がいる。

博士は,いわゆる「アメリカンドリーム」を成し遂げた人物であり,
成功哲学」と呼ばれる分野において,たいへん有名な方である。


博士は,かつて,「ストレンジスト・シークレット」というレコードを出した。
そして,このレコードは,全米で「100万枚」も売れて,ベストセラーとなった。




ただし,これは,「音楽のレコードではない
これは,いわゆる「オーディオ・プログラム」と呼ばれてるもので,
博士がどうやったら「成功」できるかについて,「」をしてるだけのものである。
それでも,そのレコードが全米で「100万枚」も売れたというのである。
音楽でもないのに,「ミリオンセラー」というのは,
どんだけ,すごいことなんだろう。


さて,今日,話したいと思ってるのは,
そのレコードの中で,アール・ナイチンゲール博士が
英語で「何度も言ってる言葉」があるのだが,
その言葉を紹介したいのである。

その言葉とは,こういう言葉である。

 "We become what we think about"

 「人間は自分が考えているような人間になる

注: 上記のYouTubeの動画だと,「4分27秒」あたりから。)



博士によれば,これが,古今東西の賢人,聖人,宗教家
などが「共通して」述べてる事柄であり,
彼らが言わんとしてることを「要約」すると,そうなるのだそうである。

博士は,その著書の中で,「聖書」にも当然言及しているが,
具体的には,「箴言23章7節」の言葉を紹介している。

ちなみに,うちのサイトでは,
この箴言23章7節の「原語」を見せている。
http://godpresencewithin.web.fc2.com/pages/murphy/proverbs2307.html


興味深いことに,エホバの証人の統治体の成員ダニエル・シドリック
日本に講演しに来た時に,この「箴言23章7節」に言及している。

彼(ダニエル・シドリック)は,こう述べていた。

箴言23章7節の中では,
 「彼は自分の魂の中で計算(する)」と書かれています。
 
 「幸福な考え方」,
  それは,幸福な人を作り出すのです。
 「腐敗した考え方」,
  それは,人を腐敗させてしまうのです。
 
  非常に(否定的消極的な見方をするのであるならば,
  私たちは,だんだん気落ちしてきてしまいます。
 
  そして,悲しい考え方をするのであるならば,
  自分自身そういう人なっていってしまい
  それと同時に,私たちの周りの人たちさえも,
  そういうふうにしてしまうのです。」

http://godpresencewithin.web.fc2.com/pages/jw/sydlik.html



彼(ダニエル・シドリック)は,「考え方」が重要だと述べてるのである。

しかし,日本のエホバの証人たちは,こうした話を聞いても,
なんとなく「右から左に聞き流して」しまい,
あまり真剣に,その話の重要性について,考えようとはしないのかもしれない。

しかし,このダニエル・シドリックが
日本のエホバの証人に述べてくれたことは,
実は,アメリカにおいてビジネスで「成功」していた人が
述べていたことと「まったく同じ」なのである。
(ある意味,ダニエル・シドリックも,JWの組織の「トップ」にいた「成功者の一人」だけども。)


もし,私たちが耳を澄ませるならば,
あらゆる成功者あらゆる聖典あらゆる書物が,

 「あなたは,あなたが考えているような人間になる

と教えてくれるであろう。



関連記事

「マタイ 5章28節」の本当の意味

さて,この間は,大乗仏教の「理趣経」(りしゅきょう)
という教典に書かれている,次のような言葉を引用した。

淨句 是菩薩位(けん せいせいく しほさい)
欲心を持って異性を見ることも,清浄なる菩薩の境地である。」


そして,私は,この教典が,
正直,「素晴らしい」と思ったことを述べた。
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-55.html


しかし,私は,現在でも「クリスチャン」と思ってる“端(はし)くれ”。

それで,必然的に,聖書の「マタイ5章28節」の聖句にも,
言及しておく必要性を感じるので,
一応,ここで,その聖句を引用し,
その正しい意味」について,述べておきたいと思う。


その言葉(マタイ5:28)は,有名な「山上の垂訓」と呼ばれる話の一部で,
キリスト教の創始者であるイエス・キリストが語ったと言われる言葉である。

「正しい解釈」をするために,文脈の27節から引用する。

「『あなたは姦淫を犯してはならない』
 と言われたのをあなた方は聞きました。
 しかし,わたしはあなた方に言いますが,
 女を見つづけてこれに情欲を抱く者はみな
 すでに心の中でその[]と姦淫を犯したのです。」

 -マタイ5:27,28。[新世界訳]



さて,この聖句に関しては,ものみの塔協会の出版物の中では,
いろいろ,もっともらしい説明がなされているが,
はたして,世の「男性」(健全な性欲を持つ男性のうち
いったい,どれほどの人が,この言葉を守れるだろうか

私は,はなはだ疑問に思う。

そもそも,この言葉を述べたイエス自身,
自分は,そういうことを一切したことがない」と言えるのだろうか。

その場合,自分は「経験」として,それがどういうものかを「知らない」のであるから,
「女を見つづけてこれに情欲を抱く」ということの意味自体を理解できず,
そういうことはするなと,人に言うこともできまい。

自分で「分かってる」から,人にも,そう言えるのだ。
それはつまり,イエスも「経験済み」という意味だ。


それと,この「新世界訳」のような訳し方は,実は「誤訳」である。
だから,「新共同訳」では,この聖句は,こうなっている。

「しかし,わたしは言っておく。
 みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも
 既に心の中でその女を犯したのである。」

 -マタイ5:28。[新共同訳

塚本訳」では,「情欲をもって人妻を見る者は皆」と訳されている。)
http://bbbible.com/bbb/bbbmt05a.html#mt5.27-32


なんで,こういう訳し方をするのかというと,
文脈が「姦淫」(「淫行」ではない)について述べてるからである。

実は,この点(「誤訳」に関して)は,早くも明治時代には,内村鑑三(無教会主義)が指摘していた。
大正元年発行の内村鑑三氏の『誤訳正解』において,この聖句は,

 「凡そ色欲を遂げんとして(おんな)を見るものは
  既に心のうちに姦淫したるなり」


と訳すのが正解だと,彼は述べている。

どういうことかというと,まず,「
つまり,「既婚女性」をそういう目で見る,という点であること。
そして,文語訳にあるように,
「すべて色情を懐きて」じゃない,という点である。
「色欲を遂げんとして」である。

「色欲を遂げんとして」と,「色情を懐きて」は,明らかに,違う行為だろう。
遂げんとして」という場合,そこには,邪悪さを感じる。
それは,明らかに,自分の「欲望を満足」させるためだったら,
相手の「しあわせ」も「福祉」も関係ない,というような邪悪さを感じる。


この聖句に関しては,ギリシャ語辞典の編集者,織田 昭 氏も,
その著「マタイによる福音」の中で,こう述べている。

「ここは口語訳の,「女を見る者はという感じとは意味が異なるでしょう。
 これに早くから気づいて,この新共同訳にある訳し方
 を提唱したのは内村鑑三です

 しかし内村氏も「それでは,みだらな目で婦人を見るのは許されるのか」という,
 先程の目をつぶって転ぶ側からの批判を浴びたのではないかと思います。
 確かに「他人の」という言葉は原文にありませんし,
 定冠詞もついておりませんから「女を」だろうと言う理屈も成り立ちますけども,
 モーセの十戒とのつながりから,そして ου μοιχευσεισ
 --姦淫するな--という具体的な罪の性質から言っても,
 a woman というより,the wife に対する冒とくを問題にしているのです。」

 (織田 昭 著「マタイによる福音」 松本工房,1993年。145ページ。)




これでお分かりになるように,その真実の意味
実際にはものみの塔協会が教えてるような意味ではない

正しい聖書理解は必要以上に自分を責めないためには
必要な知識だと私は思う。

たぶん,マタイ5章28節に関する「正しい知識(理解)」を身につけると,
そこでイエスが言わんとしてることは,
あなたを非難してるわけではないことが分かるであろう。


私たちは,どこかの宗教の指導者が,その聖句を間違って解釈して
私たちに押しつけてきた「高い基準」に添えないことで,
自分を(極度に)責める必要はない

美しい女性を見て,「美しい」とか「欲しい」とか「イイ」
と感じる時のあなたの思いは,たぶん,
あなたが「健全な」男子である証拠である。


もちろん,女の子を目の前にして,
あまり,上から下まで舐めるようにして見る男も「気持ち悪い」から,
程度がある」とは思うが,それは,このブログで今言うことではない。


P.S.
上記の説明は,聖書を「文字どおりに」解釈する人のために述べている。
私が普段述べている「心の法則の観点からの解説ではない

心の法則の観点では,「姦淫また違う意味になる
マーフィー博士は,こう述べている。
「聖書でいう姦淫とは,邪神崇拝(間違った神を崇拝すること)です。
 あなたの心の中に悪魔がすみついている限り,
 誤った考えが心の中に存在することになり,姦淫を犯すことに等しくなるのです。」

このマーフィー博士の言葉も,「心の法則」を知らない人にはさらに説明が必要だが,
要するに,「内なる神」“以外のもの”(自分の「外」にあるもの)
に信頼をよせることを姦淫と言うのです。



関連記事

「理趣経」(りしゅきょう)の教え

大乗仏教の経典に,

 「理趣経」(りしゅきょう)

という名の教典がある。

正確には,「大楽金剛不空真実三摩耶経」(たいら・きんこう・ふこう・しんじ・さんまやけい」
または,「般若波羅蜜多理趣品」(はんにゃ・はらみた・りしゅぼん)と言う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E8%B6%A3%E7%B5%8C

これは,大乗仏教の中でも,とりわけ,
真言宗」(密教)が用いてる教典である。

興味深いことに,この教典は,他の教典とは違って,
「呉音」(ごおん)ではなく,「漢音」(かんおん)で読む。
「漢音」とは,英語で言えば,「カタカナ英語」みたいなものか。


さて,この教典は,なにゆえ「漢音」で読むのかという理由に,
わざと」漢音で読むことによって,経文を読みなれた人にさえも
聞いただけでは意味をつかめないようにしている」というのがあるという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E9%9F%B3

じゃあ,その,「わざと分からないようにしてる」教典の内容とは?

気になるのではないだろうか。
そこで,ここで紹介してみる。

このような内容が書かれてある。


妙適 淨句 是菩薩位(びょうてき せいせいく しほさい)
「男女交合(sex)の妙なる恍惚は,清浄なる菩薩の境地である。」

慾箭 淨句 是菩薩位(よくせん せいせいく しほさい)
「欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも,清浄なる菩薩の境地である。」

淨句 是菩薩位(しょく せいせいく しほさい)
「男女の触れ合いも,清浄なる菩薩の境地である。」

愛縛 淨句 是菩薩位(あいはく せいせいく しほさい)
「異性を愛し,かたく抱き合うのも,清浄なる菩薩の境地である。」

一切自在主 淨句 是菩薩位(いっせいしさいしゅ せいせいく しほさい)
「男女が抱き合って満足し,すべてに自由,すべての主,
 天にも登るような心持ちになるのも,清浄なる菩薩の境地である。」

淨句 是菩薩位(けん せいせいく しほさい)
「欲心を持って異性を見ることも,清浄なる菩薩の境地である。」

適 淨句 是菩薩位(てきえっ せいせいく しほさい)
「男女交合(sex)して,悦なる快感を味わうことも,清浄なる菩薩の境地である。」

淨句 是菩薩位(あい せいせいく しほさい)
「男女の愛も,清浄なる菩薩の境地である。」

http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/risukyou.htm




一見して分かるが,仏教について何も知らない人が読めば,
たちまちに「誤解」してしまうような内容が書かれているのである。

興味深いことに,日本に真言宗を広めた弘法大師・空海は,
天台宗の開祖,最澄から,「理趣経」の解説本である「理趣釈経」を借してくれ
とお願いされた時に,それを断わった。
以後,二人の交流はなくなったことが知られている。

空海が最澄の申し出を「断わった理由」については明らかにされてはいないが,一般には,
この「理趣経」の内容が,間違って解釈されることを恐れたためとも言われている。
仏教の専門家(ある宗派の宗祖)でさえ,「誤解する危険性がある」ほどなのである。
http://www4.ocn.ne.jp/~yamamtso/newpage51.htm


しかし,この教典,実際に(漢音)を聞いてみると
荘厳」と申しましょうか,瞑想するにはふさわしいと感じます。
http://www.ichigenkuyou.jp/risyu.mp3
上記のアドレスを右クリックして,対象をファイルに保存でダウンロードできます。

http://www.ichigenkuyou.jp/risyu.htm


特に,この教典の中の

見 淨句 是菩薩位(けん せいせいく しほさい)
欲心を持って異性を見ることも清浄なる菩薩の境地である。」



と言ってる部分は,JWの教理によって,変に自分を傷つけ
自分を抑圧し痛めつけてきた私としては,「感動」さえ覚える。

はっきり言えば,私は,自分が現役のエホバの証人だった頃,
自分の罪悪感で,「自尊心」をまったく持てなかったのである。
(JWの教理では,マスターベーションでさえ「禁止」される。
 それどころか,「性欲」自体を否定的に見る。)


ところが,真言密教にとっては,それさえも,

 「大日如来」(神)が人間に与えたもうた
 「素晴らしい欲望の一つ

なのである。


どこまでも「自分を肯定」する宗教。

自分にどこまでも「素直」でいられ,
自分に誠実であれ」(自分にウソはつくな)と教えてくれる宗教。

自分の「ありのまま」を素直に認めて,それを「否定しない」宗教。

それは,「本来,素晴らしいものだ」(自然なのだ)と教えてくれる宗教。

それは,その内容を「誤解」したり,「極端」になったりしなければ,
本当に素晴らしいことを教えてくれてる教典であり,宗教なのだと私は思う。


あなたも,自分を責めるのはもうやめて
自分の素晴らしいところに,目を向けてみないか?

そして,自分の「気持ち」や「感情」(心の声に素直に耳を傾けて
あなたの「」が欲しいと思うもの(願い)があるのなら,
正直に,そして大胆に,「それが欲しい」と,言ってみないか。
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-25.html

それは,あなたの心があなたに対して,
「それが必要だ!」と言ってるものなのである。



関連記事

わたしがあなたを選びました

埼玉県の熊谷市に,「中山産婦人科クリニック」という病院がある。
その病院の鮫島浩二先生が,お母さんのお腹にいる赤ちゃんの気持ち
になって書いたという詩がある。

その詩のタイトルは,

 「わたしがあなたを選びました

である。
http://www.sunlotus.org/download/choubun/pdf/erabi.pdf


生命の誕生」というのは,実に不思議なものである。
これは,世界で毎日のように起きている「奇跡」の一つである。


http://bb2.atbb.jp/strongwings/viewtopic.php?t=640


木の葉一枚つくれない私たち人間が,
愛する人と一緒になると,「赤ちゃん」ができるのである。
「すごい」としか言いようがない。


私たちは,生まれる前,「どこに」いたのであろうか。
ある人たちは,輪廻を信じている。
また,ある人たちは,天にいてお父さんとお母さんを「選んで」生まれてくると言う。

マーフィー理論では,赤ちゃんは,
生まれる前,「スピリット」(霊)だったと教える。
その「霊」だった者が,両親の愛に呼応して,生まれてくるのである。
だから,マーフィー博士は,

 「あなたは両親の家に子供として現われた無限なる霊なのです。」

(ジョセフ・マーフィー著「成功とツキをもたらす黄金律」
  騎虎書房,1993年。144ページ。)


と述べる。

それは,私たちが「神」だと言ってるのではなく,
私たちは,「神の子」(神の息子/であるということである。


聖書には,そのことを示す「実例」が書いてあるだろうか。

イエス・キリストが,そうだったのではないだろうか。

クリスチャンは,彼が元々は「天にいた」と考える。
そして,聖書は,彼を「神の子」と表現する。

彼は,およそ30歳の頃,バプテスマを受け,
その時に,「天が開けた」と聖書は述べる。
おそらく,その時に,彼は,
自分が天にいたことを思い出した」のである。

通常,クリスチャンは,「誕生以前の生命はない」と考える。
だから,イエスは,私たちとは違う人間なのだ,と解釈する。

しかし,実際には,イエスとは,「私たちのこと」を示してるのではないだろうか。

すなわち,私たちも,自分が

 「神の子」(神の息子/

であることに気づき(思い起こし),
そして,頭を上げ胸を張り自信をもって
この地上を歩むことができるようにするために,
イエスの「実例」を,聖書は示してくれたのではなかろうか。

神はご自分の息子や娘たちが
自信をもって生きていくことをお望みなのだ


関連記事
好きな音楽
Terra's Theme (ファイナル・ファンタジー6)


アリア・ディ・メッツォ・カラッテーレ(ファイナル・ファンタジー6)
Translation
You can translate this blog into the language of your country by the Google Translate or the Excite Translator.


最新コメント
Since October 27, 2008
最新記事
月別アーカイブ
CalendArchive
カテゴリ
プロフィール

possible

Author:possible
男性(独身です)

故・本田美奈子と同世代

「メールアドレス」や「管理者に感想を送る」は,ウェブサイトに書いてあります。

検索フォーム
リンク
QRコード
QRコード
Maukie - The Virtual Cat
最新トラックバック
RSSリンクの表示
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。