元エホバの証人一世、possibleの“独り言”的ブログ

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「ソーハム瞑想法」と,「I AM」

今日は,ヨガとか,ヒーリングで用いられている

 「ソーハム瞑想(呼吸法)」

というものについて,お話ししてみたいと思う。

そして,そこから,「聖書との意外な共通点
についても考えてみたいと思う。


さて,「ソーハム瞑想法」とは,もちろん,
元々は,「ヒンズー教」から来てる「瞑想法」,あるいは「呼吸法」であるが,
呼吸の(無音声の)マントラ」とも言われている。
http://www.yoga-gene.com/contents/ws_and_etc/eventboard/914.html

なぜ,「呼吸の(無音声の)マントラ」と呼ばれているのかと言えば,
それは,この「ソーハム」という言葉を,口に出しては唱えないからである。
つまり,「心の中で」唱えるのである。


そのやり方についてであるが,
ゆっくり息を吸いながら,「ソー」と(心の中で)言い,
そして,ゆっくり吐きながら,「ハム」(ハムー)と(心の中で)言うのである。

ゆっくり吸って吐くので,当然,それは「腹式呼吸」(深呼吸)となる。
そして,それが,私たちの精神を落ち着かせるのである。




さて,「ソー」という言葉が,日本語の「吸う(すう)」に,
「ハム」(ハムー)が,日本語の「吐く(はく)」という言葉に
なんとなく「対応」しているように思えるのが個人的には面白いと思うが,
その言葉は,もちろん,「サンスクリット語」(梵語)である。

ソー」というのは,本来は,「sah」(サハ)という言葉で,
その三人称・単数・主格の代名詞が「ソー」である。
「ソー」とは,「」「それ」という意味である。

次に,「ハム」という言葉であるが,
元々は「aham」(アハム)という言葉で,
その一人称・単数・主格の代名詞が「ハム」である。
「ハム」とは,「わたし」という意味である。


この二つの言葉(「sah(サハ。彼)」+「aham(アハム。わたし)」)を合わせ,
連音で「Soham」(ソーハム)と発音する。

したがって,直訳は,

 「(それ)は,わたし[である]」


という意味である。
http://sitarama.jp/?mode=f38

 [~である(~です)]という角括弧で囲んだ「be動詞」は,
本来のその言葉にはないが,二つの単語を並べて,
「Aは,Bである」と読ませるのは,ヘブライ語と同様である。



さて,「ソー」も「ハム」も,文法は共に,
どちらも「主格」(「~は」「~が」の形)であり,
それゆえ,「ソーハム」を,「彼なのだ,私は」と訳す人もいる。
http://www.hannya.net/melmag002.htm

また,インドの有名な聖者の一人,サイババによれば,

I am He”(「私は彼(神)である」「私がその者である」)


という意味である。
http://sai.way-nifty.com/sainews/2004/05/thought_for_the_27.html


さて,サイババの述べる“I am He”という説明で
気づいた人もいるかもしれないが,
実は,これは,「聖書」の中に出てくる「非常に有名な言葉」なのである。

すなわち,イエス・キリストがギリシャ語で

エゴー・エイミ


と述べた言葉である。

ヘブライ語では,「エフエ」とか,「アニー・フー」と表現されてる言葉で,
それは,神がご自身について述べた言葉である。
英語の聖書では,“I am He”(私がその者である)とか,
I AM”(我有り)と訳されてる言葉である。


こういう,「聖書においても,とりわけ重要な言葉の部分で
ヒンズー教と似ているというのは,面白いと思う

私の独断と偏見で思うに,たぶん,
どちらかがどちらかに「影響」を及ぼしたか,
あるいは,「共通の源」があったように思える。

ファンダメンタルのキリスト教徒にとっては,「I AM」と「ソーハム」は
違う意味かもしれないが,「心の法則」(聖書の象徴的解釈)
の観点からすれば,「ほぼ,同じ意味」の言葉である。


聖書は,イエス・キリストの思春期と青年時代,つまり,
12歳から30歳になるまでの,およそ17年間の暮らしについては,
一切言及していない


そのため,ある人たちは,イエスはその間,
インドに行っていたのだ」と“推察”するが,
すでに述べたとおり,「ソーハム瞑想法」と,
イエスの述べた「エゴー・エイミ」には,
多くの「共通点が存在する

案外,その“推察”は,「当たらずとも遠からず」なの か・も・しれない。


もしかしたら,イエス・キリストは,日々「ソーハム瞑想」を行なった結果,
「神との一体感」(I am He)を体得した「グル」(師)なのかもしれない。




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スピリット = 霊 = 精神

今日は,私自身が,昔から不思議に思っていたというか,
興味深い事実を指摘したいと思う。

この記事は,私自身が完全に理解して言ってる事柄ではないので,
きちんとしたことは書けないとは思うが,述べてみたいと思う。


それは,英語の「スピリット」(Spirit)という言葉について,である。

これ,直訳は「」であるけども,
精神」と訳すこともできる。

だから,ものみの塔協会の日本語に訳された出版物において,
通常,「霊的」と訳されてる言葉は,
日本語では,「精神的」と訳すことも可能である。


まあ,これだけの知識なら,あえて,ここで言う必要もないだろうが,
これを「心の法則の観点から見ると
この言葉には「深い意味」が込められてるように個人的には思えるのである。
(あるいは,古代の人は,すでに「心の法則」に気づいていたのではないのか。)

というのは,たとえば,聖書の中に「悪霊」というのが出てくる。

通常,エホバの証人にとっては,
それは「悪いみ使い」(堕落したみ使い)という意味であるが,
この「霊」という言葉を「精神」ととるならば,
それは,「悪い精神」という意味になる。

こう考えれば,「悪霊に支配されてる」という聖書の言葉が,
現代においても,十分通用する言葉であることが分かる。
つまり,その人は,「悪い精神に支配されている」ということだ。


また,「聖霊」という言葉がある。

これは,文字どおりには,「聖なる霊」と読むが,
これも,「霊」を「精神」と解釈するならば,
それは,「聖なる精神」(聖(きよ)い精神)という意味になる。

これもまた,「悪霊に支配されてる」という言葉がそうであったように,
「聖霊に満たされる」という聖書の言葉も,
聖なる,清くて,良い精神に満たされている」という意味に解釈できる。


また,「神は霊である」と聖書にはある。

これなども,「霊」を「精神」ととらえるなら,
それは,「神は精神である」とも解釈できる。
つまり,その場合,「私たちの精神(心)そのものが神である」ということだ。
それは,神が「私たちの内にいる」と考える「心の法則」と調和する。


こう考えると,「悪霊」に支配されるのも,「聖霊」に満たされるのも,
すべて,私たちの精神」(心)次第
「心構え」次第,「考え方」次第だということが分かる。


聖書は,やはり,「心の法則」の観点から見た方が,よく分かると私は思う。
つまり,聖書は,私たちの「内面」について教えてくれてるのだと。


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