元エホバの証人一世、possibleの“独り言”的ブログ

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「命令形」の訳し方が好きな人々(その1)

ずいぶん昔のことになるが(もう10年以上前の話),
私がインターネットにデビューした頃,
あるエホバの証人関連のサイトの掲示板において,
マタイ22章37節」に関する論争があった。

それは,その聖句で「愛さねばならない」(他の翻訳では「愛せよ」)
と訳されてる言葉に関する論争であった。

「神は,ご自分を愛するようにと命令している?」という記事を参照。)


その部分のギリシャ語は,実際には「命令法ではなく
「直説法」の中の「未来形」(未来時制)
という形で書かれている。

したがって,その直訳(字義的な意味)は,

愛するであろう」(新約聖書翻訳委員会訳)


である。

しかし,「であろう」という表現が,日本語では「推測」
と間違われるふしがあるので,「possible訳」だったら,もしかしたら,

あなたは必ず愛する


という,強い確信で言い切る形の表現になるかもしれない。

あるいは,それに,期待や確信(信頼)や義務的要素も付け加えるなら,
あなたは必ず愛するはず]」という表現になるかもしれない。


確かに,その「未来形」の中に,命令的要素も含まれており
英語でも,「You will ~」と言えば,
あなたには~をしていただきます」という意味になる。
その「語調を強めて」相手に言えば,
~しなさい」「~してください」という意味の「命令文」となる。

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 この「未来時制の命令的用法」は,他の言語でも同じ。
 たとえば,「イタリア語」に関しては,以下のブログの面白い記事を参照。
 http://ragazzasolare.blog18.fc2.com/blog-entry-16.html


-----------------------------

そして,「You」と「Will」の位置を反対にして,
疑問形で,「Will you ~?」と表現すれば,
~していただけますか?」という非常に丁寧なお願いの表現になる。
(ちなみに,「Would you ~?」という表現だと,もっと丁寧になる。)

しかし,このような 非常に「丁寧な言い方」をされても,
期待されてる答えは普通は,「いやです。やりたくありません」
ではなく,「はい。分かりました」であり,
権威をもって相手から言われれば,実質,
「あなたは~しなければならない」という意味の「命令」と同じになる。

このように,「未来形」をそのまま訳しても,
命令的要素が“含まれてる”ことは確かであるが,
10年以上前の当時,それは明らかに「命令だ」と言い張る人に対して,
私は,「いや。それは命令法ではない」と言ったのである。


-------------------------------
 
 ギリシャ語の「中級/上級文法書」では,この「直説法の未来形」は,
 「時々,命令として用いられている」と書かれてることは
 知った上での議論である。

 英語で書かれたギリシャ語の「中級/上級文法書」では,
 このギリシャ語の用法は,「imperative future」とか
 「imperatival future」と呼ばれている。
 すなわち,「命令の未来形」という意味である。

 ギリシャ語で書かれた「古代の文献」(新約聖書以前の時代のもの)
 を注意深く調べた人は,その用法(直説法の未来形)が
 「in legal-instructional contexts」,つまり,
 「法的な教育/指示の文脈」の中で
 用いられていたことを見いだしている。

 それゆえ,

"As a matter of fact, this imperatival future seems to
 have a stronger force than the imperative"
 (「実際のところ,この命令の未来形は,命令法
  よりも強い力/拘束力を持っているように思われる
」)
 
 (On Conditionals in the Greek Pentateuch:
  A Study of Translation Syntax, by Anwar Tjen.
  T&T Clark Ltd, 2010. p. 189)


 と述べている。

 興味深いことに,モーセの「律法」の中にある,あの有名な
 「十戒」も,原語(特に,セプトゥアギンタ訳のギリシャ語と,
 新約聖書におけるその引用文)では,「未来形」が用いられている。
 十戒の場合には,その「未来形」(未完了態)に「否定の言葉」が付いて,
 「あなたは~しないであろう」「あなたは~しない[はず]」
 という表現になっている。
 
 すなわち,文字どおりには,

 「あなたは殺人をしない[はず]」
 「あなたは姦淫をしない[はず]」
 「あなたは盗まない[はず]」


 と書かれている。

 なお,ヘブライ語のその部分で用いられてる「否定の言葉」が,
 英語では「Never」に相当する「強い否定の言葉」なので,
 実際には,「あなたは決して殺人をしない」という意味に近い。


 私は昔,この十戒の言い方にも注目していたのであるが,
 しかし,よく調べると,ヘブライ語においては,
 「禁止の命令の表現はその種の表現方法しかないようである
 つまり,簡単に言えば,もしあなたが,ヘブライ語で「~するな」と
 命令したければ,「未完了態」(未来形)に否定の言葉を付けるしかない。
 
 そうすると,元々のヘブライ語で,「~するな」と言いたい時には,
 「あなたは~しないであろう」「あなたは~しない[はず]」という言い方
 しかできないのであり,それを日本語に訳す時には,
 「~するな」「~してはならない」というのが正しいのかもしれない。

 しかし,ここが翻訳の難しいところ。
 「脚注」がなければ,到底,正しくは読者には伝わらない。)
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さて,このように,ヘブライ語にしろ,ギリシャ語にしろ,
日本語に訳す時には,「~しろ」とか「~するな」という命令文となり,
その原語が持つ微妙なニュアンスや,元々の意味が,
「完全に消えて」無くなってしまう。

そういう,「訳す時には消えてしまう部分」にこそ,
何か,重要なメッセージが含まれてるような気がするのだが。


そもそも,誰かを「愛する」という行為自体,
誰かに命令されて行なうものではない
そこには,明確に,人の「」が関係している。

それゆえ,私たちが,本当は「愛していない人」に
愛してる「ふり」をすることは出来ても,
本当の意味で,心から愛することは出来ない。

人は,「愛せよ」と命令されて,愛せるほど
単純な生き物ではない
のだ。



しかし,ギリシャ語本文では,この「愛せよ」と
命令的/義務的に訳されてる言葉が,実際には,
「命令法」ではなく,「未来形」で書かれているのだという事実を知る時,
そこからは,何か違うメッセージを受け取るのではないだろうか。

神は,「命令法ご自分を愛しなさいとは言われなかった

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 ギリシャ語の「命令法」は,「非常に強い命令の意味」を持っており,
 それゆえ,昔のギリシャ人は,「目上との会話の中で
 この法を決して使用しなかった」と書かれている。
 (ダナ&マンティ博士著「新約聖書ギリシヤ語文法手引き」
  いのちのことば社,2000年。173ページ。)

 神は,その「上から下に」命ずる仕方の「命令法」を用いなかった。)
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むしろ,正確には,「直説法の未来形」で,
あなたは愛するであろう」(英語,"You will love")
(あるいは,「あなたは[必ず]愛する」)と言ったのである。


----------------------------------
 
 ギリシャ語学者のスタンリー・E・ポーター氏は,その中級文法書において,

 「未来時制形は,行動についての成就に対する
  高い程度の期待
を担うようである


 (「ギリシャ語新約聖書の語法」
   ナザレ企画,1998年。27ページ。)

 
 と述べている。

 それゆえ,たとえ,その「未来形」が,日本語では
 「命令的に訳されるのが正しい」としても(「imperatival future」ゆえ),
 本来,そこには,その言葉を発した人の「高い程度の期待」や
 「願望」が表現されてると見るべきである。)
---------------------------------


私は,こういう部分に,「聖書のすごさ」を感ずるのであるけれども。

しかし,ある人が,「古代の文献」を調査した結果,
この命令の未来形は,命令法よりも
強い力/拘束力を持っているように思われる

と述べていたのではないだろうか。
つまり,その未来形は,「法律」における言い方であり,
実際には,命令法よりも,命令する力が強いというわけである。

しかし,聖書の場合には,少し違うように私は感じる。
というのは,聖書の場合は,例えば,
「愛する」という,人の「」(内面)を問題にしている。
これは,「法律で命じる」ようなこと,あるいは,
「法律で命じることが出来る類の問題」だろうか。


むしろ,神は,その「未来形」で,「あなたは[必ず]~する」
「あなたは~しない[はず]」と述べることにより,
私たちへの「信頼」(期待)を表明しているのではないだろうか。

すなわち,「十戒」で例えて言えば,神は,単に,「法律」的な物言いで,
人々の「表面的な行動」を問題にしたのではなく,
「あなたは姦淫をしない」という言い方によって,本当は,

私はあなたを信頼している。だから,
 あなたは,姦淫をするような人じゃないよね


と述べてるのではないだろうか。

それゆえ,イエス・キリストは,あの有名な「山上の垂訓」の話の中で,
この「律法」に触れ,この言葉が,本来 問題にしていること,つまり,
」(内面)について指摘したのではないだろうか。
人々は,すでに,ヘブライ語やギリシャ語を熟知し,流暢に話していたのに,
それに気づかなかったわけである。(「マタイ5章27,28節」を参照。)
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-56.html


自分を信頼してくれてる人を,裏切ることは出来ない
という気持ちほど,単なる「命令」や「指図」以上に
拘束力を持つものはないであろう。

その場合,その「命令」されてる事柄は,
他人に,無理矢理 させられている行動ではなく,
実際には,「自発的な行動」となる。

聖書の「おきて」の場合には,この意味で,
命令法よりも力がある」と言えるのかもしれない。




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