元エホバの証人一世、possibleの“独り言”的ブログ

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「マタイ 5章28節」の本当の意味

さて,この間は,大乗仏教の「理趣経」(りしゅきょう)
という教典に書かれている,次のような言葉を引用した。

淨句 是菩薩位(けん せいせいく しほさい)
欲心を持って異性を見ることも,清浄なる菩薩の境地である。」


そして,私は,この教典が,
正直,「素晴らしい」と思ったことを述べた。
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-55.html


しかし,私は,現在でも「クリスチャン」と思ってる“端(はし)くれ”。

それで,必然的に,聖書の「マタイ5章28節」の聖句にも,
言及しておく必要性を感じるので,
一応,ここで,その聖句を引用し,
その正しい意味」について,述べておきたいと思う。


その言葉(マタイ5:28)は,有名な「山上の垂訓」と呼ばれる話の一部で,
キリスト教の創始者であるイエス・キリストが語ったと言われる言葉である。

「正しい解釈」をするために,文脈の27節から引用する。

「『あなたは姦淫を犯してはならない』
 と言われたのをあなた方は聞きました。
 しかし,わたしはあなた方に言いますが,
 女を見つづけてこれに情欲を抱く者はみな
 すでに心の中でその[]と姦淫を犯したのです。」

 -マタイ5:27,28。[新世界訳]



さて,この聖句に関しては,ものみの塔協会の出版物の中では,
いろいろ,もっともらしい説明がなされているが,
はたして,世の「男性」(健全な性欲を持つ男性のうち
いったい,どれほどの人が,この言葉を守れるだろうか

私は,はなはだ疑問に思う。

そもそも,この言葉を述べたイエス自身,
自分は,そういうことを一切したことがない」と言えるのだろうか。

その場合,自分は「経験」として,それがどういうものかを「知らない」のであるから,
「女を見つづけてこれに情欲を抱く」ということの意味自体を理解できず,
そういうことはするなと,人に言うこともできまい。

自分で「分かってる」から,人にも,そう言えるのだ。
それはつまり,イエスも「経験済み」という意味だ。


それと,この「新世界訳」のような訳し方は,実は「誤訳」である。
だから,「新共同訳」では,この聖句は,こうなっている。

「しかし,わたしは言っておく。
 みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも
 既に心の中でその女を犯したのである。」

 -マタイ5:28。[新共同訳

塚本訳」では,「情欲をもって人妻を見る者は皆」と訳されている。)
http://bbbible.com/bbb/bbbmt05a.html#mt5.27-32


なんで,こういう訳し方をするのかというと,
文脈が「姦淫」(「淫行」ではない)について述べてるからである。

実は,この点(「誤訳」に関して)は,早くも明治時代には,内村鑑三(無教会主義)が指摘していた。
大正元年発行の内村鑑三氏の『誤訳正解』において,この聖句は,

 「凡そ色欲を遂げんとして(おんな)を見るものは
  既に心のうちに姦淫したるなり」


と訳すのが正解だと,彼は述べている。

どういうことかというと,まず,「
つまり,「既婚女性」をそういう目で見る,という点であること。
そして,文語訳にあるように,
「すべて色情を懐きて」じゃない,という点である。
「色欲を遂げんとして」である。

「色欲を遂げんとして」と,「色情を懐きて」は,明らかに,違う行為だろう。
遂げんとして」という場合,そこには,邪悪さを感じる。
それは,明らかに,自分の「欲望を満足」させるためだったら,
相手の「しあわせ」も「福祉」も関係ない,というような邪悪さを感じる。


この聖句に関しては,ギリシャ語辞典の編集者,織田 昭 氏も,
その著「マタイによる福音」の中で,こう述べている。

「ここは口語訳の,「女を見る者はという感じとは意味が異なるでしょう。
 これに早くから気づいて,この新共同訳にある訳し方
 を提唱したのは内村鑑三です

 しかし内村氏も「それでは,みだらな目で婦人を見るのは許されるのか」という,
 先程の目をつぶって転ぶ側からの批判を浴びたのではないかと思います。
 確かに「他人の」という言葉は原文にありませんし,
 定冠詞もついておりませんから「女を」だろうと言う理屈も成り立ちますけども,
 モーセの十戒とのつながりから,そして ου μοιχευσεισ
 --姦淫するな--という具体的な罪の性質から言っても,
 a woman というより,the wife に対する冒とくを問題にしているのです。」

 (織田 昭 著「マタイによる福音」 松本工房,1993年。145ページ。)




これでお分かりになるように,その真実の意味
実際にはものみの塔協会が教えてるような意味ではない

正しい聖書理解は必要以上に自分を責めないためには
必要な知識だと私は思う。

たぶん,マタイ5章28節に関する「正しい知識(理解)」を身につけると,
そこでイエスが言わんとしてることは,
あなたを非難してるわけではないことが分かるであろう。


私たちは,どこかの宗教の指導者が,その聖句を間違って解釈して
私たちに押しつけてきた「高い基準」に添えないことで,
自分を(極度に)責める必要はない

美しい女性を見て,「美しい」とか「欲しい」とか「イイ」
と感じる時のあなたの思いは,たぶん,
あなたが「健全な」男子である証拠である。


もちろん,女の子を目の前にして,
あまり,上から下まで舐めるようにして見る男も「気持ち悪い」から,
程度がある」とは思うが,それは,このブログで今言うことではない。


P.S.
上記の説明は,聖書を「文字どおりに」解釈する人のために述べている。
私が普段述べている「心の法則の観点からの解説ではない

心の法則の観点では,「姦淫また違う意味になる
マーフィー博士は,こう述べている。
「聖書でいう姦淫とは,邪神崇拝(間違った神を崇拝すること)です。
 あなたの心の中に悪魔がすみついている限り,
 誤った考えが心の中に存在することになり,姦淫を犯すことに等しくなるのです。」

このマーフィー博士の言葉も,「心の法則」を知らない人にはさらに説明が必要だが,
要するに,「内なる神」“以外のもの”(自分の「外」にあるもの)
に信頼をよせることを姦淫と言うのです。



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コメント
返事を有難うございます

自身がヘブライ語に踏み込んだのはこのブログのおかげでもあります

自身のブログは小生のキリストとの出逢いが遅かったのでかなりカオスさがありますが その中にホンモノを混ぜています

所々にヘブライ語検索ツールを混ぜていますので笑いながらけなしながらでも見ていただけると嬉しいです

これからもよろしくお願いします
2013/11/12(火) 21:33 | URL | 青井涎掛 #-[ 編集]
「本物」には凸凹がある
青井さん>
こんばんは。

コメントをいただき,ありがとうございます。


> 最近それにまして想うのは 
> ヘブライ語 って改めて凄い 
> 聖書って次元が高い ということです

なるほど。
確かに,そうかもしれませんね。

多くの人は,それに関心がないか,
あるいは,気づいていないか,
いや,それについて「教えてくれる人がいない」
のかもしれませんね。

あるギリシャ語学者は,
原語と翻訳の違いを「絵画」に例えて,
「本物」のほうには,「凹凸がある」といいます。

これは,「油絵」のことを言ってるのだと思いますが,
「コピー」のほうには,その凹凸がないわけです。

その凸凹が分かるのが,聖書の「原語」というわけです。

そして,「コピー商品」ではなく,
本物」にこだわる人にとっては,
その凹凸が,魅力的なわけです。


> もっと聖書の言葉を蜜のように感じたいです

しばらく更新をさぼっており,
原語からの解説も,しばらく,しておりませんが,
青井さんのように感じてくださる方がおられるなら,
「やる気」も出てくるような気が致します。

やっぱり,人間って,「ほめ言葉」や
「励まし」が,時には必要ですよね。
2013/11/10(日) 22:02 | URL | possible #C454ixHI[ 編集]
このブログ を以前から拝見し 感銘を受けていました
キリスト は とても 凄い方と いつも思っています

最近それにまして想うのは 
ヘブライ語 って改めて凄い 
聖書って次元が高い ということです

だから 同じ言葉でも次元違いって大いにあるように思います

人として同じ感情もありますが 科学者の感動と ヤンキーの感動は 天と地ぐらい違います

もっと聖書の言葉を蜜のように感じたいです
2013/11/08(金) 22:40 | URL | 青井涎掛 #-[ 編集]
 こんばんわ
 私もスパニタータを読んで、ブッタの言葉とイエスの言葉が非常に多くの共通点を持っていると感じていました。誕生神話なども似ていますね。原始仏教がキリスト教に何らかの影響を与え、また大乗仏教がキリスト教の影響を受けたこともそのとうりだと思います。
  よく考えるともっと多くの宗教
 ゾロアスター教・エジプトのホルス神話・アテンの神・バラモン教ペルシャの宗教等々深いところで、つながりがあるように見えます。どの宗教もその淵源でつながりを持つているのでしょう。(名もなき、原初の霊的存在も)

 まるで、バベルの塔の物語のように、言葉(名称と形態=イメージ)によって神(霊=ロゴス=法=グレートサムシング)が混乱し分裂し対立してしまったのでしょう。
 原始仏教も原始イエスの宗教も、ブッタもイエスも娼婦や、死別に悲む人、弱い立場の人・罪人との愛情に満ちた交流が記録されています。またこのような人たちを原始教団で弟子として受け入れています。(私は人間ブッタや人間イエスを見たい)
それと同時に弟子たちに向ける非常に厳しい禁欲的な発言も。(大乗的かつ小乗的)
恐らく、これは矛盾ではないのだと思います。(ただ今の時点では、宗教の淵源の確認として、神秘主義的・小乗的な側面からキリスト教を再発見できたらと思っています。)
 言葉の上で矛盾してても、小乗も大乗も表裏の物だと受け止めたいと思います。
                        たぐち
2013/08/11(日) 01:07 | URL | たぐち #-[ 編集]
煩悩即菩提
たぐちさん>
こんばんは。

「仏教」のほうが「キリスト教」の成立よりも
ずっと先ですから,「その影響を受けた」
という部分も,もしかしたら,あるかもしれませんよね。
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-51.html

中には,イエスが,聖書に載ってない
空白の青年時代に,インドに修行に行ってきた
と考える人もいますよね。
実際,その教えは,「ヒンズー教」の教えと
似てる部分があります。
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-74.html


なお,私は,「小乗仏教」よりも,
煩悩即菩提』(ぼんのう そく ぼだい)
と教える「大乗仏教」のほうに魅力を感じます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%A9%E6%82%A9%E5%8D%B3%E8%8F%A9%E6%8F%90

http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-68.html
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-55.html


イエスの言葉も,私は,この観点で とらえます。

この点で,私と たぐちさんとでは,
同じ聖句を見ても,「見方が異なる」
のだろうと思います。

すなわち,たぐちさんは,イエスの言葉を
「小乗仏教的」にとらえ,一方,私は
「大乗仏教的」にとらえるのです。
2013/08/09(金) 22:26 | URL | possible #C454ixHI[ 編集]
    私にとっては「仏教的」(小乗仏教的)に 聞こえますが,>ご指摘のとうりです。ニュッサのグレゴリウスやエックハルトやティーリッヒの言葉を手掛かりに、キリスト教を、イエスの言葉を、目覚めの宗教の面から読んでみようと思っている面は確かにあります。(ハイデガーなどの影響もあると思います)だからと言って、1面的に理解して他者に押し付け手はいけないのはご指摘のとうりです。・・・・肝に銘じておきます。
(田川訳の価値はその「脚注」にあります。)>田川氏のイエス観にはほとんど影響を受けていませが・・・・ 今あるカトリックの学者さんの指導でマルコの講読会に参加させていただいてますが、自分はギリシャ語の学力がないので、田川訳の「脚注」がとても参考になっています。
                       たぐち
2013/08/08(木) 20:56 | URL | たぐち #-[ 編集]
田川訳もまた完璧ではない
たぐち さん

> また、マタイ5;28の文言に関しては、性それ自
> 体が問題なのではなく心を奪われること(執着し
> てしまうこと)が問題なのだと理解しています。

「執着」が問題だという説明は,
私にとっては「仏教的」(小乗仏教的)に
聞こえますが,どのような意見を持とうとも,
それを,ものみの塔のように
他人に強制することがなければ,
それはそれでいいだろうと私は思います。


> 田川氏の新約聖書翻訳者としての能力は高く
> 評価しています。

聖書翻訳は,田川氏の「願い」でしょうから,
それが実現して,よかっただろと思います。

田川氏は,ほかの学者とは違うと思います。
大抵,ほかの人の意見に
「いちゃもん」をつけるのが彼の特徴であり,
それがまた,読んでいて面白いのだと思います。

翻訳も,たぶん,その「彼の特徴」が出てる
のだろうと思います。

いわば,それは,

 新約聖書を通した
 「田川氏の個人的意見」

とも言えます。

「その翻訳が絶対だ」という妄想に
支配されない限りは,「田川訳」もまた,
日本における貴重な翻訳の一つである
と言えるかと思います。
(田川訳の価値はその「脚注」にあります。)

ただし,一言言わせていただければ,
「汝ら」という言葉を使っていて
「古くさい」と私は感じます。

田川氏は,「おじいさん」(年寄り)ですから,
仕方ないですか。
2013/08/08(木) 04:43 | URL | possible #C454ixHI[ 編集]
 こんばんわ
返事ありがとうございました。
 暴論以外のなにものでもないと感じます。 <大変失礼しました。わたしは、聖書学者たちの意見が絶対だとは思いませんが、 田川氏の新約聖書翻訳者としての能力は高く評価しています。
 また、マタイ5;28の文言に関しては、性それ自体が問題なのではなく心を奪われること(執着してしまうこと)が問題なのだと理解しています。
ただ、大貫氏にあっては、・・イエスは神の国を信じている。・・・そして、そこでは人は天使のような存在となって・・・姦淫の意味を象徴的に、よく理解したうえで語っていると感じますが・・・・・けれど・・・・いろいろ勉強になりました・・・・・・・また、一人で、ゆっくり聖書の勉強して考えてみます。
 何度も、私の投稿に付き合っていただき、いつも誠実に返答をいただいたことを感謝します。                            
                         大変失礼しました。
                            たぐち
2013/08/07(水) 23:50 | URL | たぐち #-[ 編集]
彼らは「心の法則」を知らない
たぐち さん>
こんばんは。

> 田川氏・八木氏・新井氏・大貫氏と解釈は異な
> りますが日本を代表する聖書学者がほとんど
> 「他人の妻」という訳語に賛成していません。

彼らが「日本を代表する聖書学者」かどうかは
私は存じ上げません。
また,彼らの意見が絶対だとも思いません。

私は自分の記事において,すでに
自分が述べた「理由」(根拠)を説明しています。
ギリシャ語辞典の作成者である織田氏の
説明文も引用しています。

「新約聖書翻訳委員会訳」においても,
その脚注において,「女」とは
内容的には「他人の妻」のことであろう
と述べています。

私自身は,自分の記事で述べてることが
間違ってるとは思っていません。

何度も述べてるとおり,イエスは
「淫行」ではなく,「姦淫」と述べました。
たぐちさんが引用なさった聖書学者のうち,
この「違い」を認識してる人がいるでしょうか。
むしろ,彼らは,「淫行」と誤解して
理解してるのではありませんか?

はたまた,その「象徴的」「比喩的」意味
を理解してる人がいるでしょうか。
むしろ,彼らは,その意味を理解せずに,
「文字どおり」とか,「性」がどうのこうの
などと述べています。

私は,だから,それが間違ってるというのです。

この聖句は,間違った理解をしてる人が翻訳
しても,正確に翻訳できないだろうと思います。

「姦淫」というキーワードを無視しなければ,
結婚して妻がいる人が「自分の妻に対して」
いやらしい目で見ることが
この聖句で非難されてるわけではないことは
明らかだろうと思います。
なら,「女」と述べて,すべての女性が
含まれるかのような訳し方に無理があるのです。

ここで言ってるのは,たとえば,
「すでに愛する女性がいる」のに,
その女性以外の人に性欲を持つのは
どうなんですか? それは「精神的浮気」
なのではないですか?
というようなことだと思います。
決して,性欲自体を非難してるのではないです。

これを理解せずに,いちいち
「女と訳すのが正しい」と主張するのは
暴論以外のなにものでもないと感じます。
翻訳としては正しくても,暴論になります。


たぐちさんの場合は,その「象徴的意味」を
時々説明なさいますが,引用する
聖書学者の意見との差が大きすぎます。

彼らは,象徴的意味どころか,
「姦淫」という聖書の言葉の意味も
よく理解してないように思えます。
2013/08/07(水) 18:48 | URL | possible #C454ixHI[ 編集]
ps
なお,文脈は明らかに「姦淫」について述べております、、<エゼキエル 6:9「 あなたがたのうちののがれた者は、その捕え移された国々の中でわたしを思い出す。これはわたしが、彼らのわたしを離れた姦淫の心と、偶像を慕って姦淫を行う目をくじくからである。」とあります。
「姦淫」とは、決して単なる、浮気や不倫と呼ばれる単純な罪ではく、それは、もう一つの言葉で「二心」であるのではないでしょうか?「情欲の虜になる者」、「“もう一つのもの”に目の眩む者」が犯しやすい罪だから、「虜、目の眩む者」はその一時でも、愛すべき対象を、である神(言葉)を忘れることではないでしょうか。
 
姦淫の意味が心に引っ掛かったので、考えてみました。
やはりイエスは姦淫という言葉の意味を極限まで広げたのではないのかと思います。
このことをすべての人に問いかけるのは無理があるのは確かです。やはり弟子にだけ言った言葉だと理解したほうがよさそうです。くどくどすみませんでした。
                   たぐち

                    
2013/08/07(水) 00:31 | URL | たぐち #-[ 編集]
こんばんわ
田川氏のマタイ5;28の註、調べましたので送ります。
「姦淫」というキーワードを無視して解釈しなければ。 >姦淫についてですがこの文脈では、配偶者に対する姦淫ではなく。ヨハネの手紙第一2章15-16もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。ヤコブ4:4に「世を愛することは神に敵することだ」とありますから
神(真理・実在者?)への姦淫と理解できると思います。
田川健三 マタイ註
p365
ただし一部の学者のように(クロスターマンほか)、このことを根拠に、弟十戒ではっきり「隣人の妻」(=他人の妻)」と言ってるのだから、マタイもまたここでは一般的に「女」をかんがえているのではなく、単に「隣人の妻」と言っているだけだと、と解するのは、行き過ぎである。マタイのこの部分には「汝の隣人の」はついていない。もしはっきり「隣人の」と指定したいのら、はっきりそう言うはづである。原文に書いてないことを、理屈をこねて読み込もうとするのはよくない。
ちなみに、「女を見る」だけで姦淫を犯すのと同じことになるという考えは、何もマタイの専売特許ではなく、ラビ文献にいくらでも似たようなセリフが出てくる。

イエスという男
p325
[姦淫」についての言葉はまづイエスの発言にちがいないだろうがーP328 異様で気味がが悪いほどだがある種の真理が根深くからみついて離れない。・・・・異様な突き詰め方である。・・・・・マタイの精神主義にふさわしい。・・・(マタイ5;28)は九分九厘イエスの実際の発言・・このせりふの裏にはだれだって欲情をいだかづに女を見ることなどできはしないという思いが存在している。

新井献
イエスの言葉p51みだらな思いで他人の妻(私見では「女」とすべき=新井献)
とあります。新井氏によればこのイエスの言説は心情の領域に至るまで・・マタイ福音の文脈では・・徹底命題と呼ばれるべきであろう。・・・・・p60 マタイ福音の文脈では・・女に何らかのお思いを抱くことなく・・イエスは人間に、文字どうりそのように生活することを命じている。
p62マタイ教団には去勢者のグループが存在した・・・・人間は「性」を断ち切らねばならぬ。
 尚、  p63 ではマタイのレベルから自由になって、みればイエスは離脱を進めているのでゃないと新井氏は捕捉してはいる。

八木誠一
イエス
p143マタイ5;28について近本訳「他人の妻」しかし、この解釈は技巧的すぎる。いずれにせよ実際の行為として姦淫しなければそれでよい…というのではない。

大貫 隆
イエスという経験
p62 「イエスは神の国のために結婚しないもの(文字どうりには「自からを去勢したひともいる」マタイ19:12と言い放っている。「欲情を抱いて女を見るものは」またい5:28も、この関連で読まれるべきである。おそらくイエスは「神の国」で人間は性の営みから解放されて、「天使のようになる」と信じていたからである。
田川氏・八木氏・新井氏・大貫氏と解釈は異なりますが日本を代表する聖書学者がほとんど「他人の妻」という訳語に賛成していません。
私もイエスが無条件に人間の性愛を否定しているとは感じませんが、やはりここでは何かを問いかけているのだと思います。「他人の妻」としてしまえば楽にはなるが、イエスの問いが成立しなくなり非常に薄手な言葉となってしまいます。

田川氏・八木氏・新井氏・大貫氏解釈など解釈理解はそれぞれですが5;28のような言説の前で人は、自分自身をまたは人間の存在自体を」考え、見つめなおす。イエスの言葉の意味もこの辺にある可能性もあります
2013/08/06(火) 16:49 | URL | たぐち #-[ 編集]
田川訳の「脚注」には何と?
たぐち さん>
こんばんは。
ご意見を,ありがとうございます。

この記事は,もう「3年も前に」書いたものなんですよ。


> それはそのとうりですが特に他人のという断り
> がなければ・・女とするのが自然のように思います。

なるほど。

しかし,私には,それが「自然」かどうかは,
計りかねます。そもそも,「日本語では」明確に
『妻』と『女』とでは,意味が違います。
しかし,ギリシャ語では「同じ単語」を使うという。
これはもう,日本人の自然の思考を
超えたところにあるのではないでしょうか。

その意味が「文脈により」意味が異なる以上,
単に「女」と訳しては,それこそ
日本人に誤った概念を与えると感じます。

もちろん,新共同訳における「他人の」という
原文にない挿入句は,単に「女」と訳しては
分かりづらい原文の意味を,
日本人にもよく分かるように“試みてる”
とは感じるものの,それだけでは
表現できない「別の意味」を訳しきれない
という“欠陥”もあるかと思います。

というのは,その聖句自体に
「姦淫」と書いてあるからです。
「淫行」を犯したと書いてあるのではありません。

聖書における「姦淫」とは,明確に
結婚関係における不貞を意味しています。
日本語で一般に使われてる言葉で
やや軽く表現すれば,「浮気」や「不倫」のことですね。

イエスは,なぜ「姦淫」という言葉を使ったのか。
それは,女性を見てる男が「既婚者」か,
あるいは,相手の女性が「既婚者」であるからです。
田川氏が,「他の男の所有権の侵害の問題
である」と述べてるのは,だから,そういうことでしょう。

田川氏の解釈によれば,
この聖句で述べてる「女」とは
「他の男の」所有してる女,
つまり,新共同訳が表現するところの
「他人の妻」のことです。

しかし,この解釈の場合,
見てるほうの男性が既婚者であるかどうか
は問うていません。
私は,女性を見てる男性が「既婚者」
である可能性も否定しません。
(この場合,この聖句は独身の男性
 には当てはまりません。)

その場合,すでに妻がいるのに
ほかの女性を,いやらしい目で見る男は
「心の中で,すでに浮気をしてるでしょ」
という意味になるでしょう。

新共同訳の訳し方では,残念ながら
この意味が消えてしまいます。

この意味では,たぐちさんのおっしゃるように
「女」と訳しておいたほうがいいとも言えます。
「姦淫」というキーワードを無視して解釈しなければ。


なお,「田川訳」の引用を,ありがとうございました。
私は田川訳は持ってないので,助かります。

ただ,たぶん田川訳では,その「脚注」で
何かを言ってるはずと感じます。
田川氏は,本文よりも「脚注」を重んじる人なのです。
何と書いてあるのでしょうか。
2013/08/05(月) 23:15 | URL | possible #C454ixHI[ 編集]
ご返事ありがとございました。
 ギリシャ語では,夫は単に「男」,妻は「女」という単語でーーそれはそのとうりですが特に他人のという断りがなければ・・女とするのが自然のように思います。
 「性道徳の問題であるというよりも、他の男の所有権の侵害の問題である」と述べているようですよ。(モーセの言葉の意味は私もこのとうりだと思いますがイエスがモーセの言葉を単に反復してるとは思えないのです) 田川氏のイエス理解の見解としてはそのとうりでしょうが、翻訳の正確さの問題はまた別だと思います。
ちなみに、田川訳は「 しかし私は汝らに言う、欲するために女を見る者は誰でも、心のうちで彼女を姦淫したのである。」です。
 それとも,イエスにも「罪」があると認めますか?
もちろん認めますーーそうでなければ人の苦しみが理解できないと私は思うからです。
  自分はイエスが、一方で完全な人間だとすれば、当然、愛欲の苦しみを知らないはずはないと考えます。(そうでなければ仮現論になってしまいます)
そのうえで、イエスは別の在り方を身にまとった存在と私には思えます。(もちろんキリスト教の標準的な解釈でないのは知っていますが)
 人間の苦しみ(罪又は狂った存在として)を知らなければ、イエスの言葉は人を上から見た空論になってしまうからですからです。人間にはできないのを承知の上で、何かを問いかけているのだと思います。だからやはりここは単に女と訳さなければ、イエスが単なる社会道徳を述べていることになってしまうと、私は思うのです。
 むろん、自分は女性をエピスミア((欲する・渇望・レオン・モリス(Morris, Testaments of Love, pp. 119-120. 邦訳、一四二頁)によれば情熱的な愛・ パウル・ティリッヒもエピスミアを愛と訳しうるギリシャ語のひとつに数えています)の思いで全く見ないということはできないです。しかし、そのように努力してみると、きれいごとではない自分の本当の姿が見えて来ます。新約聖書にメタノイアしなさいとありますが、自己究明がないところにメタノイアが起きるとは思えません。イエスの言う愛(アガペー)が自我の欲求にもとづかない愛だとすれば、これとておそらく人には殆ど不可能なことですが、聖書の中で至る所でイエスは人間のエゴ的な愛に反論を投げかけているように思えます。
 その厳しい言葉が人を苦しめてしまう面はたしかにあります。(そのことから訳語を他人の妻にしてしまうのが理解できないわけではありませんが、何か釈然としません)
箴言 / 4章 23節 に
「力の限り、 見張って、あなたの心を見張れ。 いのちの泉はこれからわく。 」とありますが、イエスの真意もここにあるように自分は考えています。
 マルコ3:28 はっきり言っておく。 人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される・・・とあるわけですから、ーー救いは用意されてあります。
更に、ルカによれば17:21『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」とあるのだから、ある心の状態が神の国だと理解することも可能です。
 自分は別に原理主義者ではないので、いろいろな解釈があってよいと思います。(完全な解釈はないと思います。ただ、このような訳語の解釈に幅がる時は対立した理解の注を付けるべきだと考えますが)
 長々とすみませんでした。自分は、キリスト教に興味を持って勉強をしているものです。マタイ5;28は特に気になり、イエスはなぜこのようなことを言うのかとここ数年、考え続けてきたのでブログを見てつい自分の意見を投稿してしまいました。お許しください。

                            たぐち
2013/08/05(月) 05:10 | URL | たぐち #-[ 編集]
田川氏の説明
田川建三氏は,「マタイ福音書によせて」という書物を書いてるようですが,その中で,問題の聖句について,「性道徳の問題であるというよりも、他の男の所有権の侵害の問題である」と述べているようですよ。
http://green.ap.teacup.com/ikkosway/209.html

これが真実なら,田川氏の見解は,このブログで言ってることと同じじゃないですか?


できれば,田川氏が「他人の妻」という訳に反対してるコメントを,「正確に引用」していただけないでしょうか。
2013/08/05(月) 02:57 | URL | possible #C454ixHI[ 編集]
ありがとうございます
たぐち さん>
こんばんは。
コメント,ありがとうございます。

通常,コメントは投稿すると,すぐに表示されるように設定してありますが,私が「しばらく新しい記事を書いてない」ばっかりに,コメントが「管理者の承認待ち」になってしまってます。たいへん申し訳ありませんでした。

なお,二回投稿されたようですが,同じ内容でしたので,一つは削除させていただきました。


さて,ギリシャ語も含めた,難しい内容のコメントをいただき,ありがとうございます。
現在の私は,ギリシャ語からまったく離れてしまい,専門的な観点からは,すぐにはコメントできません。申し訳ありません。

なお,新共同訳における「他人の」という言葉は,「原文にはない」挿入語であることは明らかです。私が記事で引用した織田氏も,そう述べています。

田川氏のコメントについては,「完全な引用文」を見せていただかないと,私のほうではコメントできません。田川氏がその訳し方に反対したのは,「原文にはない」という意味なのかもしれませんし。

なお,文脈は明らかに「姦淫」について述べております。聖書における「姦淫」と「淫行」は別の意味であると私は理解しています。
イエスが「姦淫」に関する律法を引用して,それに関して説明した以上,「既婚者」(女性を見てる人が婚者の男性か,あるいは,女性が既婚者である)に関して述べてるはずと考えます。文字通りにとらえれば,です。
しかし,私個人は,「文字通りには解釈しない」ことは,すでに記事で述べていますけども。

あと,言わせていだだければ,すでに記事で指摘しておりますが,「文字通りの意味」としてとらえ,しかも,厳密に「女」と訳す場合,この厳しい言葉は「イエス自身にもあてはまる」と私は思います。イエスが「ホモ」でもない限りは。
これ(マタイ5:28)は,自らが「経験」してないと言えない言葉なのです。経験してない人間が言ったところで,自分にとって意味不明なことを言ってるに過ぎません。イエスが,「いや自分だけは違う」なんて言ったとしても,そんな言い訳は 通・用・し・な・い のです。残念なことに。

それとも,イエスにも「罪」があると認めますか?

それを認めた上で,厳密に「女」と訳すのであれば,それはそれで結構なことだと思います。イエスも「我々と同じ」男(性欲のある健全な男子)である,というだけのことですから。
その場合,イエスも我々も,『お互いに』,気をつけましょうね,という意味になるでしょう。


P.S.
「マリア・マグダレネはイエスのことが好きだったのか」という記事の「脚注9」において,私は,「ギリシャ語では,夫は単に「男」,妻は「女」という単語で,“文脈”から判断するしかないので,仮に,その種の記述があっても,話がややこしくなるだけである。」と述べています。
http://godpresencewithin.web.fc2.com/pages/hitorigoto/magdalene.html

つまり,「妻」も「女」も,新約聖書では「同じ単語」です。
http://godpresencewithin.web.fc2.com/pages/possible/ephesians05.html

たぐち さんがご指摘なさったギリシャ語は,新約聖書において一般に「妻」(あるいは「女」)と訳されてる言葉とは異なります。調べると,フィリピ4:3に一度だけ出てくる言葉のようですが・・・。
http://biblesuite.com/greek/strongs_4805.htm

それゆえ,ご指摘のギリシャ語ではないから『(他人の)妻』という意味ではない,という説明に説得力はないと私個人は判断いたします。
2013/08/04(日) 23:00 | URL | possible #C454ixHI[ 編集]
他人の妻と訳すのは文脈からして強引だと思います人間にできる、できないは関係ありません。5:20[編集]わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。5:22[編集]
しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。
5:39[編集]
しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
ここでは、モーゼの言葉を内面化しほとんど人間にはできないほどに厳しく繰り返しているのです。
文脈からして、女と訳すのが正しい訳だと思います。
他人の妻と訳せば妻帯者が処女でさえもみだらな気持でじろじろ見てもよいことになってしまいますし
第一この文脈の中で誰にでもできることを言うはずがないと感じます。(自分のような人間でも他人の妻には情欲をさ持たないことはなぜか、できるのです。)
希臘語の大家である田川健三氏も他人の妻と訳すのは無理があると書いています。自分はフランス語しかわかりませんが単にfemme(夫人)といったなら成人の女性を表しますfemme de autre で他人の妻です。ギリシャ語ではΣύζυγος των άλλωνではないでしょうか。
更に、弟子たちはイエスに言った。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。というとイエスは
マタイ19:12 母の胎からそのように生まれついた去勢者がおり,人に去勢させられた去勢者がおり,天の王国のために自分を去勢した去勢者がいるからだ。それを受け入れることができる者は,受け入れなさい」。 と答えています。また、マタイ5章~. 8節「心の清い者は幸いです。その人は神を見る とある。 清い(カサルス)は情欲のもみ殻が取れた心の状態を表します(正された・混ざりもののない、混合物のない状態)。
もっと言えばヨハネの手紙には2:15世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。 2:16すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。 2:17世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。とあるのだから天の国に入るものは愛も欲も克服されたものに違いないと思います。再び言いますが人間にできるできないは関係ないのです人間の都合で訳を変更するのはいけないのだと思います。
「人はすべての罪も冒涜も許されるだろう。だが、霊への冒涜は許されることはない。また、[人の子]に敵して語るものすら許されるだろうが、聖霊に敵して語るものは、この世でも、来るべき将来の世においても許されることはない」(マタイ12:31-32)聖霊に逆らうこと以外はすべて許されるとあるのだから、この許しの言葉と5;28の厳しさとの緊迫感のうえで人は自分に目覚め生き方を見出さなければならないと受け取れます。マルコも、「人に惑わされないように気をつけなさい」(13.6)という言葉ではじめ、「目を覚ましていなさい」(13.33)で終えています。
2013/08/04(日) 02:29 | URL | たぐち #-[ 編集]
原理主義の愚かさ
てなもんや さん>
コメント,ありがとうございます。

時は19世紀後半,アメリカにおいては,すでに
聖書を「象徴的・比喩的に」解釈する教会ができていました。
あの「ラッセルと同じ時代,です。

だから,ラッセルも,その「影響」を多少なりとも受けています。
たとえば,キリストの臨在は「霊的」なもので,
「人間の目には見えない」とか。
また,「地獄」というのは,文字どおり場所ではなく
象徴的な意味(第二の死)である,とか。

だから,そういう部分は,世のキリスト教会の教えよりも
「説得力を持つ」のです。


ただ,その「象徴的な解釈」が,残念ながら,
ものみの塔の場合には,徹底してないのです

だから,聖書のほとんどは「文字どおりに」解釈し,
都合の悪いところだけ,象徴的に解釈したりします。


私は,ラッセルが,「年代計算」に重きを置く「再臨派」ではなく,
すでにその時には活動が始まっていた「ニューソート」の教会
の考えをもっと受け入れてほしかったと感じます。
そして,それを日本に伝えてほしかったです。

ただ,「ニューソート」の教会の創始者には「女性」が多く,
ラッセルは,そういう動きには警戒していたかもしれません。
ラッセルは,彼の奥さんの「書物を書く才能」さえ,決して認めませんでしたから。

21世紀は,もう,こういう「原理主義的」な教会(協会)の
出る幕ではないと私は感じます。
2010/03/20(土) 21:53 | URL | possible #C454ixHI[ 編集]
koroちゃん possibleちゃん こんちわ

イエスを「人間」としてみるならば 
解りやすいですね

koroちゃんは僕の言いたいことを
そのとうり 書いてくださいましたね
原理主義の解釈では
JWみたいになりますから

2010/03/20(土) 20:38 | URL | てなもんや #0zDVe/QE[ 編集]
興味深いですね
koroさん>
コメント,ありがとうございます。

ローマ法王に関する件は,私は,はじめて耳にしました。

法王のその述べたことの「真意」は,
その文章の「文脈」なり「全体」を読んでみなければ,
今の段階では,私は正確に批判もできませんが,
今,koroさんのその説明を聞いた限りにおいては,
ものすごく,「ばからしい」という印象を受けますね。

しかし,ものすごく厳しく,
“ものみの塔的に”あの聖句を「文字どおりに」解釈すると,
必然的に,「そうなっちゃう」んじゃないんでしょうか。
簡単に言えば,夫婦間の交わりも
妻という女を見て情欲を抱くこと」なんでしょうから。

それが,だから,「愚かしい」って,
koroさんは言ってるんだと私は思います。


聖書っていうのは,ていうか,仏教の経典でもそうですが,
文字どおりにとらえると(ファンダメンタル的,原理主義的になると),
危険な書物なのだろうと私は思います。

この点については,「オウム真理教」との関連からも,
あとで述べてみたいと思ってます。

興味深いことに,現在,オウム真理教(現・アレフ)から「脱退」した,
上祐氏率いる新団体は,仏教の経典を
象徴的に」解釈するようになり,
かなり,「まとも」になってきています。

その教えが「健全なもの」になるためには,
教典の「象徴的・比喩的解釈」に目覚める
必要があると私は感じます。
(たとえば,教典に「親を殺せ」とあっても,
 それは「文字どおりにとるべきではない」,など。)

この点は,あとで機会があったら,記事にしてみます。
2010/03/18(木) 21:05 | URL | possible #C454ixHI[ 編集]
ファンダメンタリストの愚かさ
 possibleさん、こんにちわ。興味深い記事を有難うございます。

 マタイ5:28は、昔、ローマ法王が、この聖句に言及して、例え自分の妻であっても、情欲を抱くことは良いことではないと言って、人々から厳しすぎると、総スカンを食ったことを思い出しました。

 後で、ローマ法王は、自分の妻のときはこの聖句は除外するべきですと、訂正されましたが。(笑)

 私は今のローマ法王に反感があるわけではありませんが、これらの実例は、ファンダメンタルにイエスの言葉を解釈しすぎる人の愚かさを示すものだと思います。
2010/03/18(木) 17:57 | URL | koro #-[ 編集]
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