元エホバの証人一世、possibleの“独り言”的ブログ

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5月2-8日の週 「世の霊ではなく,神の霊を受けなさい」

うちのサイトの「みんなの掲示板5」の閉鎖に伴い,
そこで毎週書いていた,エホバの証人の集会で討議される
ものみの塔研究に対するコメントを,
今度からは,このブログで書いてみたいと思う。
(「リクエスト」がありましたので,書いています。)

ブログという性質上,あまり,
詳しく考慮することはできないであろうが,
それでも,「心の法則の観点から,
毎週の「ものみの塔」誌の記事に,ツッコミを入れてみたいと思う。



では,早速,

 5月2-8日の週世の霊ではなく,神の霊を受けなさい

の記事を,考慮してみたいと思う。

まずは,この記事を読んでみる。
http://download.jw.org/files/media_magazines/w_J_20110315.pdf

MP3」は,ここ。
http://download.jw.org/files/media_magazines/w_J_20110315_04.mp3


------------------------------------------------------

さて,この記事の中に何度も出てくる「世の霊」という表現であるが,
これは,「心の法則」(マーフィー理論)で言うところの

 「大衆の心

と,ほとんど同じものだろうと,私・個・人・は・思う。
http://godpresencewithin.web.fc2.com/pages/murphy/taishunokokoro01.html

マーフィー理論では,その「大衆の心」に気をつけなさい,と教えられる。
もちろん,それは,ものみの塔協会が教えてるところの
「世の霊」とは,その定義や概念がまったく異なるけれども・・・。


さて,この記事の「2節」には,こう書かれている。

「この戦いは文字どおりのものではなく
 霊的なものです
 敵は悪魔サタンで,その主な武器は「世の霊」です。」
 (8ページ,2節)



この「霊的」(英語,"spiritual")という言葉に関しては,
私は以前,「心の法則」の観点から説明した。
すなわち,

 「精神的

という意味にも解(かい)せると。
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-72.html


たぶん,ものみの塔のような「ファンダメンタリスト」でもない限り,
また,極端な宗教的カルトにでも毒されて(洗脳されて)いない限り,
「悪魔」というのは,「実際には存在しない」(実在しない)というのは,
21世紀の,科学が発達した今日では,たぶん常識だろうと思う。
(もちろん,その種の霊的な存在を信じたい人は,
 信じればいいだろうと思う。
 ただ,わ・た・し・は・,また,心の法則では
 「その存在を認めない」というだけの話である。)


聖書が扱ってるのは,本来,「象徴的」「比喩的」なもので,
実は,私たちの

 「内面」(心の働き

について述べてるのである。

したがって,その「戦い」が

 「文字どおりのものではなく

と,「ものみの塔」誌も述べてるとおり,
実際には,その戦いは「象徴的/比喩的なもの」である。
すなわち,実際には,それは,
私たちの「内面」の中で起きる戦いのことなのである。

これを,「文字どおりのものではない」と説明しつつ,
悪魔が自分の「外部」に実在して,その者との実際の戦いがある
と「ものみの塔」のように考える時,
聖書が「本来教えてる事柄」からは,ずれて,
有害なもの」となるだろうと私は思う。
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-71.html

したがって,その「ものみの塔」誌の記事を読んでも,
なんとなく,「さわやかさ」を感じず,
むしろ,非常に窮屈で,押しつけがましく,
自分の感情や欲望(自分の本当の気持ち)を押し殺して
ものみの塔(統治体)の「いいなり」にさせられるように感じるのは,
実際には,「神の霊/精神とは反対の方向に行ってるからである。


」は,実際には,「あなたの内におり,その神が

 「あなたを通してご自身を表現

なさろうとしてる
のに,それを
「他人」が(自分は神を代表すると豪語する人間が)押し殺す時,
「神の霊/精神」は,実際には,消えてしまうのだ。
http://godpresencewithin.web.fc2.com/pages/murphy/philippians0213.html

人は,そのようなことを繰り返していると,
神の経路」と書く「神経」が,やられて,
精神的な病気(神経症)になってしまうのである。



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コメント
研究記事へのツッコミに感謝!
possibleさん,こんばんは。

「心の法則」についてもっと知りたいと考えていました。
研究記事にこの観点からのコメントとは,興味深いですね。
感謝です!
2011/05/14(土) 20:46 | URL | オオメハタ #-[ 編集]
象徴表現の多いパウロ書簡
possibleさん、こんにちわ。興味深い返信に感謝します。

 私の返信で、誤解を招いた表現があったことをお詫びします。

 私が言いたかったことは、↓ の高等批評家の聖書筆者の表を見ていただければ分かりますが、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E6%89%B9%E8%A9%95

 キリスト教会の伝統的立場と、高等批評の立場が一致している書簡は、パウロ書簡だけなのです。

 パウロ以外の書簡は、誰が書いたのか分からない人のものばかりなのです。

 第二パウロ書簡はパウロの名を借りた書簡に過ぎません。

高等批評家も認めたパウロ書簡をキリスト教徒ならまず読むべきだと、私は言いたかったのです。

 

 

 
2011/05/13(金) 10:52 | URL | koro #-[ 編集]
聖書はすべて「心の法則」(内面の働き)を示す
koroさん>
コメント,ありがとうございます。

さて,その「コリント第一5章」で述べられてる「淫行」という言葉や,その聖句に基づいた,JWの「排斥」という処置に関しては,私は以前,koroさんに,その「象徴的な意味」を説明しました。
それで,今ここで,私がその意味について,詳しく述べる必要もないかと思います。
http://bb2.atbb.jp/strongwings/viewtopic.php?t=377

そもそも,このブログの「5月2-8日の週 「世の霊ではなく,神の霊を受けなさい」」の記事において,私は,聖書が述べてるのは,「象徴的,比喩的な意味」であって,それは,実際には,私たちの内面」(心の働き)について述べている,と私は書いています。

さらに,「サタン」に関しても,「実際には存在しない」(実在しない)と書いています。

こういう読み方が分からないで,いつまでもファンダメンタリズムの「低い理解」(文字どおりの読み方)に頼っていると,いずれ,ものみの塔のような間違った解釈に陥る以外はないだろうと私は思います。

なお,「心の法則」(マーフィー理論)においては,「使徒パウロ」というのは,「心の法則を理解し,それを生活において適用できてる人」のことだと教わります。よって,「コリント第一5:3」で言ってるのは,おそらく,「心の法則を理解してる人は,ネガティブな考えが自分の心の中にとどまるのを決して許さない」というような意味だと私は思います。12節では,あなた方は「内部の人々」を裁くと述べています。すなわち,「自分の心の中の住人のこと」ですね。
それ以外の解釈は,他の人にまかせる」と掲示板で私は言いました。つまり,心の法則による象徴的解釈を他人に押しつけるつもりは私にはないので,特にその象徴的解釈に関心がないのであれば,私は「関わりたくない」(わざわざ説明したくない)という意味です。
http://bb2.atbb.jp/strongwings/viewtopic.php?t=377&postdays=0&postorder=asc&start=15


> それになぜ私がパウロ書簡にこだわるかと言う
> と、現存する写本でイエスと直接につながりが
> ない人とはいえ、写本として残っているものはパ
> ウロの書いたものしかないからです

これは,私には,言ってる意味が,よく分かりません。「第二パウロ書簡」であれ,「写本」はきちんと残っています。だから,私は,「写本では」,使徒パウロが書いたのではないという証拠はないと述べたのです。
なお,もちろん「写本として残っているもの」は,新約聖書の27冊の書“すべて”です。
2011/05/13(金) 00:12 | URL | possible #C454ixHI[ 編集]
パウロ書簡とパウロについて
possibleさん、こんにちわ。興味深い返信に感謝します。

 「パウロの名による書簡 新約聖書翻訳委員会訳 岩波書店」の本のp281に書かれていましたが、「コロサイ書、エフェソス書の両書は牧会書簡よりは早い時期に設立したであろう文章であるがゆえに、パウロに対するこだわりは見られるものの、宇宙的な基礎の上で展開されるキリスト論、教会論などに見られるように、パウロに対する依存度が比較的小さく、かなり自由で大胆な発言が目立っている」と、書かれていました。

 これに対して牧会書簡になると、パウロ思想から完全に逸脱しているんだそうです。例えば、律法に対する考え方は、テモテ第一1:9-11で

(テモテ第一 1:9‐11) すなわち,律法は,義にかなった人のためではなく,不法な者や無規律な者,不敬虔な者や罪人,愛ある親切に欠ける者や俗悪な者,父を殺す者や母を殺す者,また人を殺す者,10 淫行の者,男どうしで寝る者,人を誘拐する者,偽りを言う者,偽りの誓いをする者,そのほか何であれ,11 幸福な神の栄光ある良いたよりに基づく健全な教えに反する事柄のために公布されているのです。そしてわたしはその[良いたより]を託されました。

 possibleさんもご存知のとおり、パウロは律法を否定していたわけではなく、律法主義を否定し批判していたに過ぎません。しかし、テモテ書を始めとする牧会書簡は、そのパウロ思想から完全に逸脱して、律法を守っていく人が悪人の様なものでもあるような書き方をしているのです。

 実は、キリストが来られて、律法は廃止された、律法をまだ守っているものは悪人だ、キリストの教えられた新しい律法を守ればいいと言う考え方は、「第二パウロ思想」のもので、JWはそのことを知らず、他のキリスト教徒より悪いことに、奴隷級の定めた律法の奴隷になっているのです。

 私は、possibleさんのご指摘どおり、パウロ書簡は、象徴表現が多いと考えた方がいいと思います。

 
 パウロがイエスを,「私たちの中に住んでくださる神」(内なる神)の“象徴”として用いていたのならなら、「サタン」も象徴として述べていたのではないでしょうか。

 例えば、コリント第一5:5です。

 (コリント第一 5:5)

 あなた方がそのような人を肉の滅びのためにサタンに引き渡し,こうして主の日に霊が救われるようにするためです。

 この聖句は文字通りに考えても理解しにくいのです。どう言う意味なのでしょう。

 奴隷級の見解はこうですが。

*** 塔08 7/15 26–27ページ コリント人への手紙の  目立った点 ***

 5:5―「[邪悪な]人を肉の滅びのためにサタンに引き渡し,こうして……霊が救われるようにするためです」とは,どういう意味ですか。

 甚だしい罪を習わしにし,悔い改めない人は,会衆から排斥され,再びサタンの邪悪な世の一部になります。(ヨハ一 5:19)それで,その人はサタンに引き渡される,と言われているのです。その人が追放されることによって,会衆から腐敗をもたらす要素が滅ぼされる,つまり取り除かれることになり,会衆の霊,すなわち支配的な精神が保たれます。―テモ二 4:22


 しかし私は思うのですが、悪人を排斥することにより会衆の霊が、救われると言うより、排斥された人の霊が救われると述べられているように思えますが。

 それに、もしサタンに引き渡すことを邪悪な世の中に放り出すことだと解釈すると、たとえ会衆の清い霊を守るためとはいえ、それが愛のあることなのかという疑問も生じるのです。

 だいたい、5:5の前の5:3から理解しにくい文章なのです。

 

(コリント第一 5:1‐5)
現に,あなた方の間では淫行のことが伝えられています。しかも,諸国民の間にさえないほどの淫行で,ある人が[自分の]父の妻を有しているとのことです。

 2 それなのにあなた方は思い上がっているのですか。むしろ嘆き悲しんで,この行ないをした人があなた方の中から取り除かれるようにしなかったのですか。

 3 わたしとしては,体ではそこにいなくても,霊においてはそこにおり,あたかもそこにいるかのように,このようなことをした人をすでにきっぱりと裁きました。

 4 わたしたちの主イエスの名において,あなた方が共に集まるとき,わたしの霊もわたしたちの主イエスの力と共に[そこにあり],

 5 あなた方がそのような人を肉の滅びのためにサタンに引き渡し,こうして主の日に霊が救われるようにするためです。


 私自身も、possibleさんの言われるように、パウロが「悪霊」「サタン」と言う語を用いていても、それは文字通りの意味ではなく、象徴表現で、別の意味があるように思えます。

 それになぜ私がパウロ書簡にこだわるかと言うと、現存する写本でイエスと直接につながりがない人とはいえ、写本として残っているものはパウロの書いたものしかないからです。

 それにパウロは、「キリストの贖い」など、現在のキリスト教の基礎を築いた偉大な人です。パウロからまず学ぶべきだと感じたのです。
2011/05/12(木) 17:28 | URL | koro #-[ 編集]
JWに属しながらの批判には,限界があると思う
koroさん>
コメント,ありがとうございます。

> そして、possibleさんもそうですが、牧師さんで
> も、この高等批評の常識をご存知の方も多いで
> す。ところが、JWではそうではありません。

それが,「ファンダメンタリスト」というものですよね。つまり,「聖書はすべて,神の霊感を受けたもの」という考えが根底にあり,新約聖書では27冊の書が「神の言葉」であると考えるわけです。

牧師で,この教えを退ける,あるいは,高等批評の見解を認めるのは,いわゆる「自由主義神学」と呼ばれてるもので,聖書には「神話」や「寓話」が含まれるということも認めるので,JWのような「ファンダメンタリスト」からすれば,神の言葉の権威を弱めてる,ととらえられる立場のものですね。

アメリカ国民の半数は,「ファンダメンタリスト」(具体的には,「福音派」)と言われていますので,このような土壌が,エホバの証人という宗教を支えてるのだと思います。


> パウロの教えを純粋に学びたいのなら、パウロ
> 以外の教えも入っている可能性のある14通の
> 書簡から学ばなくても、7通の書簡だけを学べ
> ばいいのではないでしょうか。

難しい問題ですね。(笑)
そうしたければ,そうすればいい」としか答えられません。

(その態度は,私が以前,あるブログにおいて「日蓮聖人の言葉」を引用した際,「その言葉は,実際には,日蓮聖人が書いたものではない」と否定した日蓮宗の人に似ています。私自身は,その時,「たとえ日蓮聖人が書いたのではないとしても,その言葉を否定すると,日蓮聖人の思想そのものに魅力がなくなる」と述べました。その人にとっては,「日蓮聖人が書いたかどうかが重要」なのであり,私は「その言葉が優れてるかどうかが重要」という判断でした。結局,その人とは意見が合わず,私のコメントは「削除」されました。なお,その私が引用した日蓮聖人の言葉は,このブログで何度も言及されてるものです。)

そもそも,そのように考える場合,では,パウロの教え「のみ」が,なぜ有益なのか,という疑問が残ります。すでに説明しましたとおり,使徒パウロという人は,歴史上の「イエスに,直接会ったことさえない」のです。

ですから,彼が「使徒」と言っていても,それは,彼が「勝手に」使徒と言ってる(自分で勝手にそう思ってる)だけのことです。彼は,「12使徒」の一人でさえありません。彼の書物に「歴史上のイエス」に言及する記述がほとんどないのは,それが主な理由だと思います。

しかし,使徒パウロの記述が有益なのは,実は,このゆえだと私は思ってます。つまり,彼にとっては,「歴史上のイエス」は大切ではなく,むしろ,彼にとってのイエスとは,「私たちの中に住んでくださる神」(内なる神)の“象徴”なのです。

エフェソス書は,私たちが「神の神殿」である(すなわち,その中に神の霊が住む)と述べていますし(エフェソス2:21,22),また,キリストが私たちの「心の中に住む」と述べています。(エフェソス3:17) 

こういう思想は,使徒パウロ独特のもので,決してそれが使徒パウロの思想と無縁のものではないと私は感じます。(たとえば,「ヤコブ書」を書いた人に,同じような記述は書けないでしょう。)

「言葉遣いが他の書物とは異なる」というのは,実際には,「説得力に欠ける説明」であり,私だけを見ても,数年前の書き方や思想とは違ってるでしょうし,また,対象となる人が違えば,文章を簡単に書いたり,難しく書いたりもできます。
(数年前は,「心の法則」という言葉さえ,私はまったく使ってません。私は現役JWだったのであり,聖書を文字どおりに解釈する,完全なる「ファンダメンタリスト」でした。では,数年前の私の記述は,私が書いてないと言えるでしょうか。そんなことはありません。「同じ人」が書いてるのです。そして,そのことは,高等批評の「限界」を示すのです。)
2011/05/12(木) 01:48 | URL | possible #C454ixHI[ 編集]
パウロ書簡は象徴表現が多いと考えるべきでしょう。
possibleさん、こんばんわ。興味深い返信を下さり、教えてくださることに、感謝します。

 私自身は、神や聖書に関して、いろいろな考え方があっていいと思いますし、その考え方も絶対視して鵜呑みすることも避けるべきだとも思います。

 それで、私は、エフェソス書がパウロが書いた書簡でないことは明らかだとは、述べてはいません。

 possibleさんもご存知のように、高等批評では、現在、ローマ書、コリント第一書、第二書、ガラテヤ書、フィリピ書、テサロニケ第一書、フィレモン書、の7書簡を、パウロの書簡として認められているし、この事は、高等批評では、常識になっているようだと述べただけです。

 そして、possibleさんもそうですが、牧師さんでも、この高等批評の常識をご存知の方も多いです。ところが、JWではそうではありません。

 もちろん、聖書の高等批評の時間をかけて調べたことでも、不完全な人間の理論ですので、間違いもあるでしょうし、エフェソス書は学者の間では意見は分かれているのは興味深いとも思います。

 ただ、私個人は、エフェソス書が、類義語反復が多いし、過剰な装飾語、冗語的表現も多いので、パウロらしいいスマートさが感じられないので、パウロが書いたのではないのではと、思います。もちろん、皆さんがどんな考え方を持たれようと自由ですし、押し付けるつもりはありません。

 また、possibleさんのご指摘どおり、たとえ、エフェソス書がパウロが書いたものでなくても、ファンダメンタルに解釈しすぎなければ、有益な書にもなり得るのかもしれません。

 またローマ10:4のご指摘ですけれども、パウロの手紙の文脈を考慮すると、信仰義認論を述べているので、彼が「律法の終わり」と言っていても、律法主義の終わりのことを述べていることは明らかで、「律法を完全に遵守することは不完全な人間には不可能だ。イエスを主と認め、彼が死人の中からよみがえったことを信じることが救いにつながる。」と、述べていたように思います。

 ところが、possibleさんと違い、エフェソス2:14、15は、JWにようなファンダメンタリストは、そのような理解にはならないと思います。

 たとえば、奴隷級のエフェソス2:14,15の理解はこのようなものです。

 *** 洞‐2 1254ページ 和解 ***

 つまりキリスト・イエスの犠牲は,疎外されていた非ユダヤ人の諸国民が「キリストの血によって近い者とな(る)」ための道を開きました。(エフェ 2:13)

 その犠牲はそれだけでなく,ユダヤ人と非ユダヤ人の間の隔壁をも取り除きました。

 イエスの犠牲は律法契約を成就して取り除き,それによってキリストが「両方の民を一つの体とし,苦しみの杭を通して神と十分に和解させる」ことが可能になったのです。

 「彼は自分自身によってその敵意[律法契約によって生じた隔壁]を抹殺したからです」。

 ユダヤ人と非ユダヤ人は今やキリスト・イエスを通して神に近づく一つの方法を持つことになり,非ユダヤ人は時たつうちに,キリストと共なる王国の相続人として新しい契約に入れられました。―エフェ 2:14‐22; ロマ 8:16,17; ヘブ 9:15。


 もちろん、パウロ書簡は、難解なものも多く、解釈が難しいのですが、これはpossibleさんがいわれるように、パウロが象徴的に聖書を解釈していたからかもしれません。

 しかし、私は、ファンダメンタルに聖書を読むことは基本だと思います。それで、パウロの教えを純粋に学びたいのなら、パウロ以外の教えも入っている可能性のある14通の書簡から学ばなくても、7通の書簡だけを学べばいいのではないでしょうか。

 
2011/05/12(木) 00:46 | URL | koro #-[ 編集]
高等批評家は「心の法則」を知らないと思う
koroさん>
コメント,ありがとうございます。

「高等批評」に関しては,確かに,JWのような「ファンダメンタリズムの教義を退ける」上では,非常に有効な手段であることは認めます。私は,すでに,コメント欄で,そう述べました。

しかし,高等批評家が,私が何度も述べる「心の法則」(聖書の象徴的読み方)を知ってるかと言えば,たぶん,大部分は「知らない」だろうと思います。

私が,エフェソス書も有益と判断するのは,「文字どおりの読み方」からは離れ,それを「象徴的・比喩的に読む」からです。

そもそも,聖書をJW的に「文字どおりに」読んだとしても,エフェソス2:15で言ってるところの「律法」とは,その前の節(14節)で言ってるところの「壁」のことだと思います。すなわち,聖書を「文字どおりに」解釈し,厳密に当てはめすぎて「律法主義」に陥ったパリサイ人的な人たちが治める「神殿」において,ユダヤ人と異邦人を分けていたものです。

エフェソス書が言ってるのは,その有害な解釈(律法主義)を,キリストが取り去ってくれたと言ってるのだと思います。
(そもそも,エフェソス書が「パウロの書いたものではない」証拠として,「エフェソス2:15」を問題にするのなら,では,使徒パウロが確かに書いたと言われる「ローマ10:4はどう解釈するのでしょうか。そこでは,「キリストは律法の終わり」と言われているのです。)


新約聖書において,「律法」と書いてあれば,必ず「律法」という意味ではなく,パウロの文書においての「律法」とは,他の文書でもそうですが,主に「律法主義という意味です。もし,そのエフェソス書に書いてある「律法」という言葉を「律法主義」と解釈すれば,それを「廃棄」したというのは,むしろ,有益な教えになります。
(これは,ものみの塔の解釈とは異なります。ものみの塔の解釈が「おかしい」のは,この点です。キリスト教の創始者(キリスト)の考えでは,律法は廃棄されてないのです。)

なお,「心の法則」の観点から言えば,ここで言ってる「神殿」とは,実際には,「わたしたちのこと」です。(エフェソス2:21,22)
それは,「使徒パウロの真正七書簡」の一つである,「コリント第一」の聖句と調和しています。(コリント第一3:16; 6:19)


ところで,「高等批評」の観点(見方)は,あくまでも「学者たちによる推測」に基づいており,実際の「写本の証拠があるわけではないことは,前に(掲示板で)お話ししました。
「シナイ写本」にしても,「バチカン写本」にしても,あるいは,それ以前の「パピルスの写本」にしても,エフェソス書をパウロが書いたのではないとする証拠はあ・り・ま・せ・ん・。

あくまでも,それ(高等批評)は「学者たちによる推論」に基づくものである(だから当然,「間違うこともあり得る」し,「今後,見解が変わることもあり得る」)と,よ~く知った上で,有効に活用するのが良いのではないかと私は思います。

なお,純粋に「高等批評」の観点からしても,エフェソス書に関しては,学者たちの間では,「意見が分かれて」います。ですから,ウィキペディアでは,エフェソス書を書いた人は,「パウロか編集者」と書かれています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E6%89%B9%E8%A9%95
それなのに,「エフェソス書は使徒パウロが書いたのではないのは明らか」と“言い切る”のは,やや「強引すぎる」のではないかと思われます。

たとえ,「高等批評」の考えや知識が,ものみの塔的な考えよりは「有益」であるとしても,それを「押しつければ,それもまた「有害」となります。それは,以前,「捏造された聖書」という書物の内容に関して,私が,koroさんに対して言ったことと同じです。

岩波書店の「新約聖書翻訳委員会訳」は,確かに優れた翻訳でありますし,その解説もまた,「最新の学説」に基づいた非常に優秀なものですが,それもまた,「ある学者たちによる,ひとつの意見/見解」と見なし,それを「絶対視」してはならないと思います。絶対視するのは,ものみの塔を絶対視するのと同じです。その場合,単に,「互いに意見が異なる」というだけの話で,どちらも有害になります。
2011/05/11(水) 00:27 | URL | possible #C454ixHI[ 編集]
possibleさん、こんばんわ。興味深い返信でいろいろ教えてくださり、感謝します。

 私は、神や聖書に対するいろいろな考え方はあっていいと思います。

それで、私はグノーシス主義を批判しているのではなく、あくまでも、ものみの塔を批判してるつもりでいます。

 ものみの塔は、聖書の中の14通をパウロの書簡と考えているから、コリント第一2:12から、エフェソス2:1-3に話を発展させることを、何とも思わないのでしょう。

 しかし、高等批評では、考え方や文体から、エフェソス書は、パウロの書簡ではないことは、常識なのです。

 律法に対する考え方の違いは、キリストが来て律法は必要でなくなったと考える(エフェソス2:15)第二パウロ書簡と、キリストは来られたが律法は人類に必要なもので、律法主義を批判した(ローマ3:31)パウロ書簡に明確な違いがあるのです。

 また文体の違いについて言えば、ことエフェソス書に関しては非パウロ的言葉遣いが顕著です。(悪魔をパウロはサタンと呼ぶが、エフェソス書はデアボロス(エフェソス4:27,6:11)を使っています。(「パウロの名による書簡 岩波書店」p284から)

 それで、私がものみの塔の執筆者なら、高等批評家が、一応認めた7通のパウロ書簡から、話を発展させるでしょう。

 私も、グノーシス主義やマルキオンについて調べてみました。
http://homepage3.nifty.com/mirandaris/gnosis0.html

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/gnousisu/marukion.htm
 
 


 


 


 



 
2011/05/10(火) 23:14 | URL | koro #-[ 編集]
聖書はファンダメンタルでは正確に解釈できない
koroさん>
コメント,ありがとうございます。

koroさんと話していると,話が「発展」しますので,こういうブログのコメント欄では,正直,「扱いにくい」(長いコメントを書きづらい)と感じます。
ブログのコメント欄というのは,たぶん,「短いコメント」を述べるためのものなんでしょうね。

さて,「ものみの塔」誌の記事に関して,引っかかるものがあるとのことですが,統治体は「ファンダメンタリスト」ですから,そういう書き方になるんだろうと思います。
基本的に,ファンダメンタリストの解釈と,「心の法則」の解釈は,相容れません。

「エフェソス書」に関しても,私が「有益」と判断するのは,たぶん,「ファンダメンタリスト」のように読んでないからだろうと思います。聖書にそのように書いてあっても,「文字どおりには解釈しない」(象徴的,比喩的な意味)というのが,心の法則の解釈法なのです。

koroさんが,エフェソス書のその聖句(エフェソス2:2)を批判していますけども,たぶん,私とkoroさんでは,同じその聖句を読んでも,「見方が異なる」のだろうと思います。私は,その聖句も,「文字どおりには受け取らない」からです。


ところで,「アルコーン」とあって,それが「グノーシス主義」では,どうのこうのと,koroさんは述べておられますが,グノーシス主義においての「アルコーン」とは,いわゆる「デーミウールゴス」(デミウルゴス)と呼ばれてる者,すなわち,旧約聖書で「ヤハウェ」と言われてる者のことです。つまり,簡単に言えば,サタンのことではあ・り・ま・せ・ん・。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%9F%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%82%B4%E3%82%B9

あの有名な「マルキオン」という人物が,「旧約聖書」を“退け”,「ルカの福音書」と「使徒パウロの書物」にだけ権威を認めたのは,たぶん,この種の考えがあったからでしょう。

グノーシス主義を批判すると,たぶん,なんで「マルキオン」が,使徒パウロの書物を集めて,それ“だけ”に権威を認めたのかが,よく分からなくなるのではないかなぁ~と思います。

確かに,使徒パウロは,グノーシス主義者ではなかったかもしれませんが,彼の書物に権威を最初に認め,それを正典化し始めたのは,主に,マルキオンのような,グノーシス主義的な考えを持った人間です。
ここから分かることは,使徒パウロの思想の中に,グノーシス主義的なものもある,ということなのだろうと思います。

そもそも,グノーシス主義では,「本来の自己」というものを“認識”(グノーシス)し,そこから救いを得ようする教えです。それは,心の法則で言うところの「内なる神」という考えと共通するものがあります。
http://www.kanshin.com/keyword/366306/trackback

2011/05/09(月) 22:52 | URL | possible #C454ixHI[ 編集]
コリント第一2:12からエフェソス2:1-3についていけない
possibleさん、こんばんわ。

 返信に感謝します。

 私は、パウロ信奉者ではないですし、パウロ以外の書簡も価値のあるものはあるでしょう。

 ただ、気になったのは、ものみの塔の記事の書き方なのです。

 ものみの塔では、コリント第一2:12の世の霊を、引用した後、「世の霊とは何でしょうか?それはどのように影響を及ぼすようになりましたか?」と、読者に質問しながら、エフェソス2:1-3を読み答えを得るように誘導している事が、私には、引っかかるのです。

 例えば、「パウロの名による書簡 新約聖書翻訳委員会訳」(岩波書店)の本では、エフェソス2:2は、こんな訳でこんな解説がされています。
http://bbbible.com/bbb/bbbep02.html#ep2.1-10
 

 天空という権勢領域の支配者(アルコーン)とは、直訳すれば、「天空の権勢の支配者」。ヨハネ12:31、14:30,16:11では、「この世(=コスモス)の支配者(アルコーン)」。グノーシス主義では天界の悪しき天使的存在。

 私は、この本の解説を読んで、エフェソス書はグノーシス主義の影響を受けていたと思いました。

 

 果たして、パウロはグノーシス主義者だったか?私は違うと思います。

2011/05/09(月) 00:32 | URL | koro #-[ 編集]
パウロの書簡だけに価値があるわけではない
koroさん>
コメント,ありがとうございます。

確かに,JWのような「ファンダメンタリスト」の集会に出席してる人にとっては,その教義を崩す上で,その聖句が「使徒パウロが書いたもの」か,それとも,「第二パウロ書簡」かというのは,大切な判断材料の一つかもしれませんよね。

また,「使徒パウロが書いた」とされる文書の中においても,たとえば,「女は会衆の中では黙っていよ」の聖句のように,使徒パウロが書いたのではないと思われる文章を退ける」上で,高等批評の判断は,役立つだろうと思います。


ただ,これを徹底的に追求し,「では,使徒パウロが書いたものだと,どうして有益だと言えるのか?」と訊かれても,答えられないだろうと思います。
使徒パウロは,「歴史上のイエスに直接会ったことさえない人」なのです。
つまり,「キリスト教」の何たるかも,本当は知らないのです。
したがって,ある人は,使徒パウロこそ,歴史上最大の「背教者」と言います。

ですから,大切なのは,「誰が書いたのか」ということよりも,「どんな内容なのか」ということなのだろうと思います。
「使徒パウロが書いたのかどうか」を追求するのは,その「使徒性」(権威)ゆえではなく,たぶん,その「内容」にあります。

この点で言えば,いわゆる「外典」と呼ばれる書物の中にも,有益なものもあります。
この場合,明らかに使徒パウロが書いたのではなく,しかも,「新約聖書」の中にさえ含まれなくても,有益なものもあると判断できます。


「エフェソス書」に関しては,高等批評の観点からすれば,確かに,「使徒パウロが書いたものではない」ものかもしれませんが,しかし,それは,たとえば,テモテやテトスへの「牧会書簡」のような文書ほど,有害なものでもないと個人的には感じます。
その理由は,おそらく,「エフェソス書」は,使徒パウロが亡くなってから,それほど経っていない時に書かれ,いわゆる「階級制度」が成立する前の時代だったからだろうと思います。

私個人は,エフェソス書は「好き」ですけどね。

しかし,この文書も,ものみの塔のように「ファンダメンタルに解釈すれば,「有害なものとなる,ということだろうと思います。
2011/05/08(日) 22:51 | URL | possible #C454ixHI[ 編集]
possibleさん、こんにちわ。

 JWによると、世の霊とは、この世の支配的傾向で、多くの人々は、この世の支配者である悪魔サタンの悪い影響を受けていると言う主張で、エフェソス2:1-3を引用していますが、

 私は、高等批評の学者の言われるように、エフソス書は、パウロの書簡ではないと信じているので、霊的に得られるところのない資料だと言う感想ですね。

 possibleさんはよくご存知なのですが、知らない人のために述べますが、JWは、14の書簡をパウロの書簡だと考えていますが、高等批評では、文体や律法に対する考え方の違いなどから、ローマ書、コリント第一、第二書、ガラテヤ書、フィリピ書、テサロニケ第一書、フィレモン書の7書簡だけをパウロの書いた書簡として考えているようなのです。

 それに私はいつも感じるのですが、聖句の一部分だけを取り出して、解説を加え、他の聖句の一部分だけを取り出して、、ものみの塔は、解説して話を発展させていますが、聖句と言うものは、文脈を大切にしなければ筆者の言おうとしていることは理解できないのではないでしょうか。
2011/05/08(日) 12:31 | URL | koro #-[ 編集]
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