「
直感」とは何だろう?
分かっているようでいて,
でも,それを人に「
分かりやすく」説明しよう
と思うと,案外,難しいものである。
私なりに説明しようとすれば,それは,
自分の「
内なる神」あるいは「
潜在意識」
からのメッセージである。
それは,「明確な声」というよりも,
「
感覚」であったり,「
なんとなく」
であったりする。
私たちは,日々,この「
直感」を使っている。
たとえば,この道を
右に行こうか,
左に行こうか。
今日は,
なんとなく,こっちの道を通っていきたい。
なんとなく,今日は,この道を行くのはやめよう。
そんなふうに感じたり,思ったことはないだろうか。
それが「
直感」である。
その「
直感」を信じて,そのとおりに従うかどうかは,
あなた次第である。
ある人は,この直感を「無視」する。
なんとなく「
いやな予感」がするのに,それを無視する。
自分では,「こちらがいいと思う」のに,
「他人の意見」や「世間の目」を気にして無視する。
そのようにしてると,自分の直感は,だんだんと消え去る。
あるいは,直感は,ちゃんとメッセージを送ってるのに,
「いつもそれを無視」してるものだから,それに気づかない。
聖書には,こんな不思議な記述がある。
(イザヤ 30:21。新世界訳)
「あなた方が右に行くにしても左に行くにしても,
あなたの耳はあなたの後ろで,
「これが道である。あなた方はこれを歩め」
と言う言葉を聞くであろう。」
聖書は,この種のメッセージに満ちていると私は思う。
私は,これが「
直感」だと思う。
たとえば,こんな聖句もある。
(サムエル第二 2:1。新世界訳)
「そして,その後,
ダビデはエホバに伺って,こう言ったのである。
「わたしはユダの都市の一つへ上って行きましょうか」。
するとエホバは彼に言われた,「上って行け」。
そしてダビデはさらに言った,
「どこへ上って行きましょうか」。
すると,言われた,「ヘブロンへ」。」
実に不思議な聖句である。
そう思わないだろうか。
ダビデは,どうやって「
神に伺った」のだろうか。
そして,どういうふうに答えを得たのだろうか。
ダビデは,明らかに,「
統治体に」
伺ったので・は・な・い。
私は,こう思う。
ダビデは,「
自分の心に訊いた」のだと。
(もう少し詩的に表現すれば,「
自分の胸に手を当てて訊いた」のである。)
すると,自分の心が答えを出したのだ,と。
いわば,彼は,自分の「内なる神に」訊いたのである。
一方,聖書には,こんな記述もある。
(サムエル第一 28:5, 6。新世界訳)
「サウルはフィリスティア人の陣営を見ると,
恐れ,その心はひどくおののきはじめた。
サウルはエホバに伺うのであったが,
エホバは夢によっても,ウリムによっても,
預言者によっても決して答えられなかった。」
この場合,彼の内なる神は,何も答えてくれなかった。
理由は単純である。
彼が「
恐れ,その心はひどくおののきはじめ」ていたからである。
簡単に言えば,彼の心が「
ネガティブ思考」でいっぱいであり,
そのため,潜在意識からのメッセージも,
直感も働かなかったのである。
このような「マイナスの心の状態の時に」問い訊ねても,
たぶん,潜在意識は,「ネガティブなメッセージ」しか返してこない。
私は,聖書は,
ポジティブ思考により,
自分の「
直感を信じろ!」
と教えてるのだと思う。
その行為が常に「良い結果」を生むとは限らないとしても,
しかし,何の導きもないように見える人生の中で,
明日はどうなるのかさえ分からない私たちの人生において,
「
頼れるのは,自分しかいない」のである。
だったら,自分の心が訴えかけてくるメッセージを
ちゃんと聞こうではないか。
例えば,こんなふうに。
「ここに,黄色と青の服がある。
どちらの服が良いだろうか。
黄色か。
青か。
それとも両方か。
あるいは,今は買わないほうが良いか。」
あなたの心は,たぶん,答えを知っている。